山久保小学校 (旧日光市の廃校 06)

住所:日光市山久保844

今市時習舎の山窪分校

 山久保小学校は明治6年(1873)、柴田亀次の居宅(*1)に今市時習舎の山窪分校として開校された。柴田はそこで訓導(教師)となり生徒の指導にあたった。柴田家の祖先は京都の出身で、騒乱を避けこの地に移住し、山窪村の名主を務めた家であり、高い教養を備えた人物であったと想像される。学校は明治9年(1876)、山久保稲荷神社そばの丁字路の東側の丘の上、すでに廃寺となっていた泉蔵院の場所に移転した。開校当初に学校があった柴田家の建物は養蚕を営んでおり、大正13年頃(1924)に焼失してしまったが、すぐに建て替えられ、現在も非常に大きな古い木造住宅と石垣が残る。

山久保の柴田家住宅
(*1)山久保の柴田家住宅

廃校

 その後、山窪小学校は町村制の施行や教育法の改定により何度か校名を変えたが、昭和48年(1973)、日光市立野口小学校に統合される形で廃校となる。
 平成4年(1992)に校地の跡が整備され、ゲートボールなどが楽しめる小さな公園になっている(正確には「なっていた」)。以前この学校に通っていた方に話を伺った所、校門に通じる道は南側にあったが、登ってみたところこれはもうすでに自然に還ってしまっていた。公園にアクセスする新しい道路が西側に付けられているが、腰の高さまで一面に雑草が生え、太い蜘蛛の巣に行く手を阻まれる公園には近年に誰かが憩いを楽しんだ形跡は見受けられない。かなり急なこの道は苔が生え始め、お陰でバイクを停めるときにエンストして立ちゴケまでやらかしてしまった。
 校庭跡地には石塔や卵塔型墓碑、石仏が見られるが(*2)これが山窪村の泉蔵院跡である。石仏の首がことごとく欠けているが、これはかの愚かな廃仏毀釈時の名残だということだ。
 校地は上下に分かれており、上段に校舎があり、現在は廃校記念碑が草むらの奥にたたずんでいる。下段は校庭として使われていた。

泉蔵院跡
(*2)泉蔵院跡
山久保小学校廃校記念碑
山久保小学校の廃校記念碑
山久保小学校校庭
山久保小学校校庭
  • 明治6年(1873)1月 今市宿時習舎 山窪村第一番分校として柴田亀次宅に開校
  • 明治9年(1876)10月 山窪小学校と称し泉蔵院を校舎とする
  • 明治17年(1884) 北和泉尋常小学校の山窪分校となる。
  • 明治23年(1890) 町村制施行により、日光町立七里尋常小学校山窪分校となる。
  • 明治33年(1900)8月 日光町立山窪尋常小学校となる
  • 明治42年(1909)3月 校舎竣工
  • 明治42年(1909)4月 日光尋常小学校南校となる
  • 昭和13年(1938)5月 新校舎増築
  • 昭和16年(1941)4月 日光町山窪国民学校となる
  • 昭和21年(1946)4月 学制改正により日光町立山窪小学校となる
  • 昭和29年(1954)2月 市制施行により日光市立山窪小学校となる
  • 昭和30年(1955)4月 地名変更により日光市立山久保小学校となる
  • 昭和48年(1973)4月 日光市立野口小学校に統合 廃校となる

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