鬼怒川水力電気 06 (電源の設置、軌道と鉄索)

 さてこれまで、「黒部堰堤」「下滝発電所」「逆川ダム」とそれらをつなぐ「隧道」の工事の様子を辿ってみた。それによって鬼怒川水力電気の工事のおおよその位置関係が掴めたと思う。
 今回は、それらの主な工事の「下準備」にあたる工事について調べてみる。

電源の設置

 鬼怒川水力電気株式会社が立ち上がり、土地の調査、買収、測量、設計、国内外からの資材の建築資材の購入と進んできて、「工事」として一番はじめに着手されたのが電源の設置である。
 黒部や逆川は深山の秘境でありもちろん電気は通っていなかったが、昼夜兼行で行わる工事の照明や、削岩機などの工事機械に使う電力の確保は工事の進捗速度を大きく左右する。
 通常、それらの電力は工事現場の近くの渓水を利用した小さな水力発電で賄うことが多かったが、鬼怒川水電は遠く離れた「下野電力会社日光発電所(旧日光市の憾満ヶ淵のあたり)」の発電用水路を借りて、ドイツのアルゲマイネ社製の発電機(600kw、11,000V)1台を水路に設置して電力を起こし、架設された送電線によって工事地に供給することにした。
 送電線は日光発電所から小百付近を通過し、そこで分岐された送電線は小休止を経て黒部にむかい、水路に沿って田茂沢、逆川、下滝と通り、小佐越からまた小百に戻るぐるりと一周するループ線(総延長30マイル(約48km))として設置された。。
 工事現場で使用する削岩機等の電圧は200Vであったため、途中の小休戸、黒部、戸中とちゅう(旧栗山村の日向集落のあたり)、恋路沢、逆川沢、馬背場沢、田茂沢、下滝には変圧所が設けられた。
 この電気によって、栗山村黒部の幹部用住宅には電気で湯を沸かす浴槽があったという。

 ちなみに工事の当初はこの電力で十分であったが、工事が進捗してくると削岩機の台数は50台を超えて電力の需要が増加したため、下野電力会社の余剰電力150kwの供給も受ける契約も交わした。

下野電力会社日光発電所

 下野電力会社の日光発電所は明治26年(1893)10月1日、「日光電力株式会社」として現在の日光市匠町(当時は日光町向河原)に産声をあげ、栃木県初の配電線による電力供給で日光町に250灯の電灯供給を始めた。これは京都市蹴上発電所(明治25年4月)、函根電燈(現・箱根、明治25年6月)に次ぐ全国で3番めに出来た発電所で、日本で初めて国産発電機を用いた発電所でもあった。

大正元年測図の日光町と現在の日光市(今昔マップ on the webを用いて作成)

 日光発電所は下野電力会社に吸収されるなど何度か社名変更を繰り返し、現在は東京電力リニューアブルパワー株式会社の日光第二発電所として現在も稼働中であるが、以前の発電所はもっと山の斜面よりにあったという。

軌道と鉄索の設置

 電線の架設工事とほぼ同時の明治43年(1910)12月、今市から藤原間の会津西街道上に建設資材を運搬する馬車軌道の設置工事が着手された。
 荷の運搬には馬のほか、牛も使われた。

 敷設された軌道は総延長21マイル(約33.8km)であり、今市と藤原村小原間は県道であった会津西街道に敷設され、大桑~豊岡村一本杉間、栗山村黒部~清水沢間、及び小原周辺で分岐し藤原村の下滝発電所に至る通路は専用軌道を設けた。

距離(マイル軌間(呎吋フィートインチ軌条(碼封度ヤードポンド
今市~小原約10哩2呎6吋1碼25封度
大桑~一本杉約5哩2呎6吋1碼12封度
黒部~清水沢約5哩2呎6吋1碼12封度
下滝発電所約1哩2呎6吋1碼25封度
鬼怒川水電軌道工事(工學會誌 第375巻(工学会/編 1914))

 上の表には、距離(1哩=約1.609km)、軌道の間隔(約76cm)と、そして軌条(レール)の重さ(0.9mあたりそれぞれ11kg、5.4kg)が記載されている。軌条の重さは強度に比例し、運搬できる荷の重量に大きく関係するものである。

今市から大谷川を渡河

 軌道は今市駅前に設けられた「鬼怒川水電今市出張所」からスタートし、大谷川を渡った。大谷川には既存の「大谷橋」の他にもう一本、「鬼怒川水力電気専用橋」が架けられた。当時の大谷向の住民が鬼怒川水電に対し、万が一事故や洪水があった際の不安を訴えるなどしたが、それに対して鬼怒川水電側が何らかの対処をした様子は見られない。

鬼怒川水力電気案内図
大谷橋の下方に「鬼怒電専用橋」の文字(鬼怒川水力電気案内図)
大谷川を渡る馬車軌道(鬼怒川水力電気株式会社工事中写真帖)
大谷川を渡る馬車軌道。おそらく今市町側より撮影。(鬼怒川水力電気株式会社工事中写真帖)
大谷川を渡る馬車軌道(鬼怒川水力電気株式会社工事中写真帖)
大谷川を渡る馬車軌道。おそらくは大谷向方面より撮影。(鬼怒川水力電気株式会社工事中写真帖)

 上の二つの写真は鬼怒電専用橋を通って大谷川を渡る軌道の様子を撮影したものである。
 ・上の写真は今市町から大谷向方面に向かって撮影したもの。
 ・下の写真は大谷向から今市町方面に向かって撮影したものではないかと思われる。
 下の写真で正面に見える森は如来寺境内の杉森ということである。以前、如来寺と二宮神社の裏側一帯に樹齢200年を超えると言われていた巨杉の森があったが、昭和34年(1959)頃伐採された。

大桑から黒部へ

 軌道は会津西街道を進み、大桑で栗山村方面と藤原村方面に分岐した。一方の軌道は小百方面に向かって栗山街道を通り、途中の一本杉まで続いた。小百の「一本杉」の地名は現在は釣り堀の名称として残っているが、本来の一本杉はそこから600mほど栗山方面寄りになる。
 大桑から一本杉の間は軌道のカーブがきついところがあり、そこでは何度か負傷者を伴う事故があったことが記録されている。
 一本杉からは鉄索によって大笹峠を越え、黒部・青柳平まで運ばれた。この場所は現在の元栗山小中学校の校庭である。

鬼怒川水力電気案内図
一本杉あたりから鉄索が伸び、小休戸、大笹峠を経由し黒部へと通じる。(鬼怒川水力電気案内図)
 複数の資料によってはこの小百の軌道の終点を小百の「穴澤」、「一本杉」と記載しているものがあり、どちらが正しいのかはよく分からない。
 だが、「工學會誌 第375巻(工学会/編 発行 1914)」の鬼怒川水力電気」の項を見ると、
・大桑、一本杉間軌道工事 5哩(マイル)
・一本杉小休戸間鉄索工事 2哩
・小休戸黒部間鉄索工事 4哩
とあり、現在の地図に距離を当てはめたところ、「一本杉」説を採用したほうが資料と辻褄があう。このため、第1回から続く本章は「一本杉」として記載している。

大谷川から砥川、鬼怒川を渡河

 大桑で分岐した軌道のもう一方は藤原村方面に向かって砥川を渡り、中岩では中岩橋の下流の「かっぱとろ」のあたりに専用橋を架橋し(明治45年春)、鬼怒川を渡った。

鬼怒川水力電気案内図
中岩橋の下方に「鬼怒電専用橋」(鬼怒川水力電気案内図)
鬼怒川水力電気専用橋
奥に見える中岩橋の下流に建設された鬼怒川水力電気専用橋。工事完了後に撤去された。(鬼怒川水力電気株式会社工事中写真帖)

 下の写真がかっぱ瀞に架けられた木桁の鬼怒電専用橋である。奥には見える橋は中岩橋である。
 鬼怒電専用橋は非常に立派な基礎を持つ橋で、上りと下りの複線になっていたことがわかる。この専用橋は下滝発電所の工事竣工後に撤去されてしまった。
 「豊岡村誌」の地図には鬼怒川水電の橋脚の名残が描かれている。

鬼怒川水電専用橋 橋脚
鬼怒川水電専用橋の橋脚
下野発電工事橋脚
かっぱ瀞に架けられた工事専用橋脚の跡(豊岡村誌より)

藤原温泉で黒鉄橋によって再度鬼怒川を渡河

 軌道はさらに鬼怒川左岸の藤原温泉の途中で分岐した。一方は鬼怒川にかけられた鉄橋を渡って右岸の下滝へと伸びた。
 その頃、藤原温泉では軌道敷設中の土工数名が酒気を帯びて同村の八木澤善八宅に乱入し、障子戸その他を手当たり次第に破壊する事件があり、本人は一時避難した。八木澤善八は鬼怒川温泉の「あさやホテル」の創業者である。当時の「麻屋」は今と違って鬼怒川の左岸にあった。この暴行が発生する前、鬼怒川水電は軌道用地として八木澤氏の土地を買収しようとしたが交渉は纏まらなかった。そのためこの暴行は鬼怒川水電の意を汲んだ何者かの報復ではないかと噂された。

黒鉄橋(くろがね橋)

鬼怒川を渡る馬車軌道(くろがね橋)(鬼怒川水力電気株式会社工事中写真帖)
鬼怒川を渡る馬車軌道(鬼怒川水力電気株式会社工事中写真帖)

 発電所は藤原温泉の対岸の下滝に建設することが決まったが、当時架橋されていた吊橋では重量物の運搬が不可能だったため、官設鉄道の架橋に使われていた「ポニー型ワーレントラス」を「上路式トラス鉄橋」に改造して架橋し(三角形が連なって見える部分が「トラス」である)、明治43年(1910)、現在の「黒鉄橋くろがねばし」の30mほど上流に鉄橋が完成した(会津西街道の歴史を歩く 著:佐藤権司)。当時の技術で架けられた橋の写真は今見てもびっくりするほど美しいが、当時、鉄橋はめずらしく、多くの見物客が押し寄せた。この写真は当時架かっていた吊り橋から撮影したものだろう。
 高原山を背景としたこの鉄橋の写真には温泉旅館群が一切写っていないのが興味深い。この周辺は当時「鬼怒川温泉」という名称もなく、温泉が湧くひなびた村だったのだ。

 以下は、おそらく当時鉄橋が架けられていた場所である。写真左側には鬼怒川温泉ホテルがあり、右側には近年誰も訪れた人がいないような遊歩道がある。

くろがね橋
現在のくろがね橋
現在のくろがね橋。鬼怒川温泉の旅館が立ち並ぶ。

 藤原温泉で分岐した残りのもう一方は小原まで続き、そこからは鉄索で逆川さかせがわダムへ荷を運んだ。さらに鉄索は隧道の前線基地であった田茂沢へと続いていた。田茂沢には昔も今も住む人はいないが、現在でも川治ダム近辺から道が続いている。

鬼怒川水力電気案内図
下方(左岸)から黒鉄橋を渡って下滝へ。一方は小原まで。そこからは鉄索が逆川ダムまで伸びている。(鬼怒川水力電気案内図)
鬼怒川水力電気案内図
逆川ダムからさらに伸びる鉄索が田茂沢まで。黒部と下滝を結ぶ隧道の前線基地とされた。(鬼怒川水力電気案内図)

 下の写真は水道管の隧道建設の基地となった田茂沢である。10年ほど前までは轍が残るくらいに人が歩ける林道があったが、今はこれより先に一人で入山するのはかなりの度胸が必要である。鬼怒川温泉の小原から山を越え、ここまで鉄索が伸びていた。

田茂沢
田茂沢。今の鬼怒川温泉から、こんなところまで鉄索が伸びていたとは。

 余談ではあるが、この鉄索は人の移動にも使われた。黒部に住む堰堤課長が今市で行われた宴席に参加するときに、鉄索と馬車軌道を乗り継いで移動したことが新聞記事に書かれている。スキー場のリフトのようなものだと言えばそれまでだが、人が乗るために作られていない鉄索で移動するのはなかなかの据わった肝っ玉が必要だろう。

送電線

 発電された電力は1府4県、43町村に渡る約123.2kmを高圧電線によって、東京都荒川区の東尾久地区にあった鬼怒川水力発電㈱の「東京尾久変電所」まで送電された。この周辺には現在も「キヌ電通り」と呼ばれる一角が残っている。「キヌ電」とはもちろん「鬼怒川水力電気」の略称である。

 今市の大正時代の地図を見ると、今とそれほど変わらない高圧送電線の様子を辿ることができる。

鬼怒川水力電気の送電線
大桑方面に描かれた送電線(今昔マップon the webを利用して作図)

 さて、このようにして竣工を迎え、東京への送電を開始した鬼怒川水力電気㈱であるが、これだけの未曾有の大工事は当然ながら今市や藤原、栗山に大きな影響を及ぼした。

 次回はその光と影を辿ってみよう。

 つづく。

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