今市の廃校10 和正舎(小林小学校)の分校 (1)

はじめに

 今回は明治期、小林小学校の開校と、今は廃校になった当地の分校について調べた。


・小林小学校が開校した場所
・当時開校した分校の跡
を探っていく。


 最初に明治の頃の小林地区と小林小学校の成り立ちから説明したいと思う。
 小林小学校は創立150周年を迎えた伝統ある小学校で、今も現役の小学校であるが、廃校となったいくつかの分校のあとを追うために、まずは本校となる小林小学校の歴史にも触れる。

学制

 まず我々が近代教育を語る上で前提として頭に入れておくのは、「明治5年(1872)」に明治政府より発布された「学制」である。
 戊辰戦争で旧幕府軍を倒し、政権を担った明治政府は「人づくり」、「教育の重要」さを掲げて学制を発布する。しかし、戦争で疲弊し、道路整備や鉄道、廃藩置県などの重要課題におわれる明治政府に、学制の掲げた高遠な理念を完遂するだけの財源は無かった。
 そのため政府は、「神仏分離令」によって廃寺となっていた寺院、寺子屋、戸長や裕福な家を「学校」として仮開校することを推奨し、子弟の教育を開始した。校地の整備にかかる財源は地元有志の浄財が主であり、例えば田んぼの石高などで各家の募金額が決まったりした。
 筆者としては、神仏分離令は行き過ぎた愚策でありこれを肯定するつもりは全く無いが、幸か不幸か偶然か、そのスーパー愚策によって廃寺となっていた場所が、日本各地の子弟の教育の場として発展していくこととなる。

 お気づきかと思うが、令和4年(2022)には、様々な分野で「150周年」が祝われた。各地の小学校、市政町政、鉄道、これは枚挙にいとまがないが、明治の新政府が始めた新・ニッポンの幕開けからの150年なのだろう。

小林村と篠井村

 ここで、明治期の「小林周辺地域」の歴史を大まかに振り返る。

 明治22年(1889)の町村制施行では、合併にあたり「1つの村は最低500戸」という目標が掲げられた。そのため郡役所は隣接する村々の合併に向けての折衝を行った。もちろんこれは、縁もゆかりもない村々を無理に合併させるものではなく、人や物資の往来、田畑の水源など生活基盤を共にする村々の合併が(半ば強制的ではあるにせよ)勧められた。
 町村制施行によりこの周辺は、それまでは独立村であった篠井村、石名田村、上小池村、下小池村、飯山村、小林村、塩野室村、沓掛村、嘉多蔵村、沢又村、矢野口村の11村が合併し、河内郡篠井村となった。

  • 明治22年(1889)4月1日 町村制施行。
    篠井村、石名田村、上小池村、下小池村、飯山村、小林村、塩野室村、沓掛村、嘉多蔵村、沢又村、矢野口村が合併し「河内郡篠井村」が成立する。
  • 昭和29年(1954)11月1日 「篠井村」は宇都宮市と今市市へ分割編入となる。
    (1)篠井、石名田、上小池、下小池、飯山は宇都宮市へ編入される。
    (2)小林、塩野室、沓掛、嘉多蔵、沢又、矢野口は今市市へ編入される。
  • 平成18年(2006)3月20日 今市市が(旧)日光市、足尾町、藤原町、栗山村と合併し日光市を新設する。

 ただ、今回の小林小学校の分校の話は明治22年の町村制施行以前の話となる。なぜ上記のような合併の経緯を持ち出したかというと、小林地区は現在日光市となっているが、明治当時は今市よりは宇都宮方面とのつながりが強かったということを説明するためだ。
 ちなみに昭和生まれの人達は高校受験をする際に「学区」というものを経験しているはずだ。昭和29年(1954)以前、小林に住んでいた年代の人たちは、当初は「今市ではなく宇都宮が学区」だったということである。

和正舎(わしょうしゃ)の誕生

 明治6年(1873)7月2日、鳥山勇夫、次いで青木尚徳あおきひさのりと教師を招き、小林村の神官・清水沢見の住宅(*1)の一室を借用して、和正舎わしょうしゃが開校された。
 鳥山は初代校長となるが、期間は明治6年7月から約2ヶ月の間だけで、その後は青木尚徳が2代目校長となる。

青木尚徳(あおき ひさのり)

 ここで第2代目の校長となった青木尚徳(ひさのり。なおとく とも)に触れる。
 青木は茨城県福原村(現・笠間市)の生まれで、幼少から勉学に励み、19歳の頃にはすでに地元で私塾を開業していた。22歳のころに故郷を出て土沢村や板橋村に住み、30歳ころの慶応年間に塩野室村の阿久津助義の宅に住むことになり、明治4年頃まで「青木塾」を開いて子弟を教育した。当時の生徒数は男子98人、女子6人というから(日本教育史資料)かなりの大人数である。
 和正舎の開校にあたり、明治6年10月から小学小訓導師補として同校の教師となったが、明治8年11月、職を辞してもっぱら農業に勤めた。とりわけ杉苗事業に尽力し、青木の手掛けた山林はたいそうな生育を見た。
 小林小学校在学時を含め、約500名の子弟の教育にあたり、明治28年頃、70歳を過ぎた頃に塩野室で死去した。
 現在、塩野室町公民館の敷地内に「青木尚徳翁碑」が建っている。これは青木が住んだ阿久津助義邸の前に建てられたもので、弟子たちが宇都宮藩の儒学者、藤田安儀に書を依頼したものである。
 道を挟んで反対側の青木塾のあった場所は現在建物も壊され、空き地になっている。

青木尚徳翁碑(塩野室町公民館)

和正舎のその後

 さていよいよ開校となった和正舎であるが、発足当時は生徒51人(小林村41人、沓掛村8人、宮山田村2人)に対して机と椅子が10脚ずつと、極めて粗末なものであった。置かれた机の数から想像するに、これは51人の生徒を収容するには無理があったのだろう。

 翌年明治7年(1874)5月、教室狭小のため宮山田村に分舎を設置して開校した。
 宮山田村は現在の宇都宮市宮山田であり、塩野室と羽黒山の間に位置する。
 ちなみにこれを遡ること一年前、和正舎の開校のひと月前の明治6年(1873)6月には、和正舎の分校として、現在の宇都宮市宮山田の山田に「修道館」が開校されている(『上河内村史 下巻』上河内村)。これは明治13年(1880)に和正舎より独立し、後に羽黒第二小学校→宇都宮市立上河内西小学校と変異していく。
 これが事実だとすると、宮山田村とその村内の山田には本当に近い場所に、2つの「和正舎の分校」を抱えていたことになる。
 もしかするとこれは同じ学校のことを言っているのかもしれないし、修道館の一部を借用して「宮山田の分舎」としたのかもしれないが、詳細は不明である。

おおよその宮山田村の位置と、山田のバス停の場所

 さらにその後をたどる。
 明治7年(1874)12月、日光町の正尊院の長屋を45円にて購入し、小林村字前久保の斉藤文作氏の土地を借用してここに移築。これが現在の小林小学校の場所である。
 しかし明治13年には暴風により校舎が大損壊してしまったため、塩野室村の安久都あくつ弥五三郎やごさぶろう氏の家屋(*2)を借り入れて仮校舎とし、その間に本校を修繕した。

 明治17年(1884)には生徒数がさらに増加し、教室がさらに手狭になった。そこで和正舎は小林村、塩野室村、沢又村の3ヶ所に分舎を設置(*3)し、体力的にもまだ幼い一年生をその分舎に通わせた。

 以上、開校から11年に渡る和正舎の歴史を辿ってみた。時はまだ明治の初期、町村制の合併にも至っていない頃である。
 次回から本題になるが、
(*1) 小林村の神官、清水沢見 の住宅
(*2) 塩野室村の安久都弥五三郎 の住宅
(*3) 小林村、塩野室村、沢又村の3つの分舎
の跡を辿ってみよう。

 続く。

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