鬼怒川水力電気 08 完 (犠牲者を悼む碑)

犠牲者を悼む

 今回は鬼怒川水力電気㈱の建設工事で犠牲になった人々の供養の跡を辿ってみよう。

鬼怒川水力電気大丸組配下傷病死者供養塔(旧・藤原町)

 鬼怒川温泉大原の日光市立藤原中学校から旧道に入ってすぐの墓地の一角にひっそりと立つ「供養塔」。これは残念ながら地元の方に聞いてもほとんど存在を認識されていない碑であるが、大丸組が明治45年(1912)3月に建立した37名の供養塔である。
 近所のご老人にお話を伺った所、供養塔の存在は知っているが何を目的としたものかまではわからない、ということだった。

 他にも数百にも及ぶ無縁仏があるといわれるが、実態は不明である。

鬼怒川水力電気大丸組配下傷病死者供養塔

 これとは別に、竹ノ沢発電所の地内にも「竹ノ沢発電所殉難者追悼碑」がある。これは発電所敷地内にあるため、「発電所の追悼碑」と言えば多くの人はこちらの方の存在を強く認識しているように思う。

竹ノ沢発電所の追悼碑
竹ノ沢発電所の殉難者の追悼碑

哀悼の碑(旧・栗山村 水利神社)

 令和5年(2023)に廃校となってしまった日光市立栗山小中学校の校庭の一角に「水利すいり神社」がある。これは鬼怒川水力電気によって黒部堰堤ダム工事の安全を祈願して建立されたものである。
 敷地内は当時、今市からの建築資材が運ばれる終着点であり、黒部堰堤工事の最前線基地であった。水利神社には本殿の他、黒部ダムの工事による犠牲者を弔うために早川組によって建立された「哀悼の碑」や、「聖徳太子碑」「點燈てんとう記念碑」がある。「點」は「点」の旧字体であるが、これはダムの完成と発電の成功を記念したものだろうか。

哀悼の碑
栗山水利神社の哀悼の碑

 「哀悼之碑」のとなりに建てられた「聖徳太子」碑。聖徳太子は法隆寺や四天王寺を建立したと言われるなど建築史上で大きな役割を果たしたことから、「工芸の神」として大工・左官・鍛冶などの職工が結成する「太子講」の信仰対象となっている。

聖徳太子碑
水利神社の聖徳太子碑
點燈記念碑
點燈記念碑(点燈記念碑)

聖徳太子碑(旧・今市市 如来寺)

 日光市今市の如来寺の山門に向かって右手の化け桜の下にある大きな「聖徳太子碑」は、鬼怒川水力電気の工事竣工から10年を経た大正12年(1923)7月に建立されたものである。
 表面の「聖徳太子」の揮毫は栃木県知事の山脇春樹によって行われ、裏面は「鬼怒川水電工事」の際に工事に関わった今市町の地元業者の名が記されている。
 五月女組、星組、田渕組、柿沼組、松本組の名のほか、侠客の道から土木工事請負師となり昭和8年(1933)に今市町長となった「長島源次郎」の名も見える。長嶋源次郎は大宮出身であったため、「大宮源次郎」と呼ぶ人もいる。

如来寺の聖徳太子碑
今市の如来寺 聖徳太子碑

勝膳神(旧・今市市 玄樹院)

 勝膳神や馬頭観音は馬の守り神とされ、健康な馬の誕生を祈ったり、家族同然の大切な存在であった牛馬の冥福を祈るためにも建てられた。
 日光市今市の「下寺」と呼ばれる玄樹院の入り口に、鬼怒川水力電気工事に関わる勝膳神がある。
 これは「鬼怒電工事材料運搬馬匹供給組合」によって明治45年(1912)5月28日に建立されたものである。当時最も利用された輸送手段であった牛馬の扱いは苛烈で、多くの犠牲を生んだと言われる。これを悼み、組合の人々が供養するために建立したものだろう。周囲にはいくつかの馬頭観音の石仏も見られる。
 石積みの土台には発起人の藤田平吉をはじめ、30名余の名が刻まれている。その中には自分の高祖父「大嶋延生吉」の名があった。見つけたときは嬉しかった。

玄樹院の勝善神碑
玄樹院の勝善神碑

結びに

 明治の末から大正時代のはじめにかけて建設された当時日本最大級の「鬼怒川水力電気」の発電所は、このようにして東京までの送電を開始した。
 鬼怒川水電の工事は、間違いなく「鬼怒川温泉」の発展に極めて多くの役割を果たした事業であった。工事資材運搬のために作られた馬車軌道は工事完成後に撤去されることになっていたが、当時の藤原村の星藤太村長はこれに目をつけ、軌道を払い下げてもらい、今市から藤原までの鉄道を敷設することを計画する。これが現在の東武鉄道鬼怒川線へと発展していくがそれは後ほど調べてみよう。

 たくさんの犠牲者を出しながら完成したこれらの発電施設は、現在も東京電力によって多くの電力を生み出している。東京電力が管理運営する現在は「鬼怒川水電のシンボル」とも言うべき鉄管は取り払われ、環境に配慮して、大量の水を落とす発電は地下で行われている。この水管は大型バスが通れるくらいの直径があるそうだ。
 東北地方を襲った東日本大震災で、我々は原子力発電の恐ろしさを体感した。それに関係するのかは定かではないが、鬼怒川温泉に存在し水力発電の歴史を学ぶことができた「TEPCO鬼怒川ランド」は閉鎖された(原発事故以前は入り口に「原子力発電は安全です」といった内容ののぼりがかけられていたと記憶している)。非常に残念なことである。東京電力は自らの仕事にもっと誇りを持ち、水力、火力、風力、太陽光を利用した電気の安定供給の難しさとそれを可能にするための努力を声を大にして発信するべきだと思う。さらには原子力発電の安定さとクリーンさ、そしてひとたび何かが起きれば現代の人間には完全に制御することはできないその莫大な力を正確に発信すべきだ。それには当然少なからずの反響があるだろうが、現代を生きる我々には環境に無害で安定した供給を約束してくれる発電システムは未だ無く、議論も周知も取捨選択の手段も、我々素人にだって絶対に必要なものだからだ。
 我々も今一度、昔の工事の様子に思いを馳せ、感謝の気持ちと無念の死を遂げた犠牲者を弔うことを忘れないようにしたい。

参考資料

「藤原町史 通史編」 藤原町町史編纂委員会
「藤原町郷土誌 地誌篇」 藤原町教育研修会郷土誌作成委員会
「いまいち市史 通史編Ⅴ」 今市市史編さん委員会
「今市関係新聞記事資料 明治・大正編」 今市市歴史民俗資料館
「栗山村誌」 栗山村
「藤原村誌」 著者不明
日光史」 星野理一郎
「小田急二十五年史」 小田急電鉄株式会社
「小田急五十年史」 小田急電鉄株式会社
「今市史談 復刻第5号 鬼怒川発電所建設をめぐって」 今市史談会・渡辺武雄
「藤原町のおもしろ地名」藤原町

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