七里尋常小学校 (旧日光市の廃校03)

七里小学校の成り立ち

 七里尋常小学校は、明治6年(1873)3月、鉢石学舎(後の日光小学校)の七里分校として、日光町大字七里中妻坪の松寿山泉光寺せんこうじの跡を校舎に開校された。
 教員は僧の高橋忠治郎であり、高橋は後に石山忠治郎として日光二荒山神社の主典(しゅてん。官弊社・国弊社で禰宜の下に属した神職)となる人物である(日光町史)。泉光寺は天台宗の寺院であり、比叡山で修行し何らかの免状を得た僧が後に還俗げんぞくして神職となるあたりに、現代では考えられない明治初頭の神仏分離令の混乱が伺える。

七里の泉光寺跡

七里の泉光寺跡

松寿山泉光寺(天台宗)・大草保助と廣田鉞太郎

 泉光寺跡は日光杉並木の中にあり、戊辰戦争で戦士した幕府軍兵士2名の墓があることで知られる。話は少々逸脱するが、この墓は大鳥圭介隊に所属し慶應4年(1868)4月23日、宇都宮の戦いで戦死した大草保助と廣田鉞太郎のものである。二人の上官である高野熊之助(墓碑の左面によると陸軍士官兼軍察)が後に建立したものであるが、碑文を読むと「所属した隊が別であったため共に戦うことはできなかった。また、葬儀にも参列できなかった」旨の記述がある。当時幕軍の戦死者の埋葬は認められず遺骸は野ざらしになったため、おそらくこの墓は慰霊碑ということになるだろう。3名の所属藩名は不明である。

幕府軍兵士の墓
幕府軍兵士の墓

晃嶺学舎野口分校???

 明治8年(1875)には「晃嶺学舎野口分校」と合併して「生岡館」と称する。
 さてこれは肝心なことなのだが、野口小学校のHPや廃校記念碑、日光市史にもサラッと出てくるこの「晃嶺学舎野口分校」であるが、存在したのかを含めその詳細が不明である。
 まず、明治8年には「晃嶺学舎」という校名は存在しない。明治8年時点では該当する本校の校名は「鉢石学舎(明治7年(1874)開校)」であり明治12年(1879)に校名を「晃嶺学舎」としている。

 百歩譲ってこれが「鉢石学舎」のことだったとしてもだ。
 鉢石学舎は明治7年の開校と同時に6つの分校(細尾・清滝・所野・七里・西町浄光寺・東町龍蔵寺)を設置したが、野口には分校を設置していないのだ。これは「日光市史」や他の書籍からも確認できている。
 しかし「日光市史」と野口小学校HPでは、翌明治8年、急に今まで存在していない「野口分校」が出てきて合併したと書かれている。
 偉い学者先生方が編纂したはずなのに、頁によって書いてあることに齟齬がある。

 そして前項の北和泉尋常学校の項では「北和泉小学校の野口分校」(日光史)と書いたが、仮に鉢石学舎もしくは北和泉小学校のどちらかの「野口分校」というものがあったにせよ、「野口分校」の場所や開校年度に触れた本は見つけられなかった。
 日光市史はこの部分をかなり曖昧に書いているが、おそらくは正確なところは不明なのではないだろうか。もし当時の野口村に何らかの「野口分校」が存在したとするならば、それは明治初期の1、2年間のみで、日光杉並木内の竜蔵寺跡、もしくは日枝神社(*1)にあったと考えるのが妥当だと思われるのだが。

(*1)日枝神社

 日枝神社、日吉神社あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社より勧請された神社である。もとは近江国の日枝山ひえのやまに祀られていたものでその歴史は古事記に記載されているほど遡る。
 のちに日枝山は「比叡山」と名を変える。比叡山に延暦寺ができてからは天台宗・延暦寺の守護神とされた。この野口の日枝神社ももとは天台宗との関わりが非常に深いものである。
 嘉祥元年(848)、天台宗の高僧・慈覚大師が開祖。明治4年の社殿改修の棟札には「山王社」とあり、日光山内の医王院、養源院、大輪坊、教観坊の名が見られる。
 安土桃山時代、この周辺には山王社を始めとした21の坊舎が立ち並び、天台宗に属しながら日光山内と対立しつつも繁栄したが、江戸時代に入り日光東照宮の鎮座後は山内の寺坊勢力が強くなり、21坊舎は焼き払われた。
 現在の日枝神社が現在の名称になったのは、明治4年以降の神仏分離の時期であることがわかる。

その後

 さて、「生岡館」は明治19年(1886)からの三年間、独立存続が難しくなっていた瀬尾村の瀬尾尋常小学校を分校に加えたが、明治22年(1889)に瀬尾村が今市町と合併したため、分校関係は解消した。
 明治23年(1890)には町村制施行により「日光町立七里尋常小学校」となり、所野、北和泉、山窪(山久保)の3つの分校をもった。この分校は明治33年(1900)には改正小学校令により独立して、それぞれ尋常小学校となった。

 明治42年(1909)4月20日限りで廃校となり、北和泉尋常小学校と統合して野口に日光尋常小学校東校(後の野口小学校)が開校した。

  • 明治6年(1873) 鉢石学舎七里分校として開校。日光町大字七里中妻坪の松寿山泉光寺跡。
  • 明治8年(1875) 晃嶺学舎野口分校(?)と合併して生岡館と称する。
  • 明治23年(1890) 町村制施行により日光町立七里尋常小学校と称する。
  • 明治42年(1909) 廃校。野口に新しく開校した日光尋常小学校東校に統合される。

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