鬼怒川水力電気 07 (巨大工事がもたらした光と影)

 明治から大正時代にかけて、ほんの数年で完成して東京までの送電を開始した「鬼怒川水力電気株式会社」。当時東洋一と言われた規模のダムを作るために工事に従事した人数は常時6,000人とも8,000人とも言われ、それらの人々が短期間に今市町、藤原村、栗山村に押し寄せ、そして帰っていった。

 今回は、この工事によって地元はどうなったのか、そして工事の光と影を調べてみよう。

鬼怒水電創立記念碑
鬼怒水電創立記念碑

今市町の様子

 今市は明治23年(1890)より宇都宮からの鉄道が通っていたため、栗山や藤原に向けた工事貨物が集まるとともに人の往来が活発になり、鬼怒川水力電気工事の前線基地となった。そのため今市は異常とも言える活気と好景気に包まれた。
 商人は激増し、鮮魚商は7里の山道を踏破して黒部、日陰に魚を運んだ。
 運送業は例年の10倍もの繁忙となり、鉄物、日用雑貨、飲食物は2割以上値上がりした。
 農家は家で飼っている駄馬を使った日用品や食料品を運ぶ駄賃稼ぎを行っていたが、工事前は1日40銭くらいの運賃が5倍、6倍に高騰し、1日に10円以上稼ぐ者もあった(1円=100銭)。
 旅館は常に満杯でその宿泊料は2倍に達し、土工や人夫を相手に商売する芸者置屋、遊郭も次々と開店した。下野新聞は元日に祝詞の広告を載せていたが、明治44年(1911)には芸者置屋5件、遊郭は0件であった広告が大正2年(1913)の元日では芸者置屋7件、遊郭は4件となっている。遊郭は現在の上今市駅の北側の一角に、大出楼おおいでろう、開盛楼などがあり、「栃木県今市町鳥瞰図(松井天山写生・大正11年9月)」に確認できる。

今市町の遊郭(栃木県今市町鳥瞰図)
今市町の遊郭(栃木県今市町鳥瞰図)

 物価も値上がりし、景気が良くなった町民に派手な気風がまん延していった。呉服店では木綿製品より絹製品が好まれた。
 その他、鬼怒電の工事用地の土地の買収資金が預金されたため今市銀行の預金高は1.5倍となり、今市局の取り扱う郵便物も1.5倍に増えるなどした。
 多少資本を持つ者は小飲食店を開業したが、料理店に出入りする町民はかえって減った。これは鬼怒川水電の関係者が利用する料理店が非常に増え、町民は金銭に余裕があり遊意があるにも関わらず、鬼怒川水電関係者をはばかったためである。
 そんな中でも今市町民はこの景気には後日必ず反動が来ると予測し、収入に任せてすべて浪費してしまう傾向は比較的少なかったという。

藤原村の様子

 藤原村も同様に景気が良くなった。駄馬輸送の運送業者や旅館業は言うに及ばず、飲食店、遊郭、生活必需品や食料を売る商人は工事関係者の需要を得て活気づいた。労働賃金も跳ね上がり、婦女子たちも糸紡ぎなどの内職をやめて工事地内で砂利運びなどの軽作業に従事した。
 村内には多額の金銭が流れ込んだため、村民の生活水準は飛躍的な向上を見た。粟、稗などの食料に変わって白米を食べ、鮮魚、ビール、缶詰などが食卓にのぼり、それまでの質素な服装に変わっていわゆるハイカラな洋服や靴が売れ、女性は絹製品を身にまとった。
 貧しい寒村であった藤原村民の生活はそのようにして一変したが、そのスピードがあまりに急激だったため、「贅沢」や「おしゃれ」を通り越して目に余る者も増えていった。アクセサリーを付けた華美な女性、労働せずに日夜を問わず遊興に興じる者、骨董や書画に手を出す者、嗜好的な食事を好む者が増え、それに加えて土工や人夫の荒い気風が社会的な混乱を巻き起こした。
 組対組の土工間の闘争事件は後を経たず、殺人、傷害致死から強盗、窃盗、恐喝、姦通など様々な事件が起こり、しかも表沙汰になるのはまさに氷山の一角だった。
 村では自警団を組織し、暴力事件は時に警察官までもが殉職し、軍隊が出動して鎮圧した闘争事件もあったという。

栗山村の様子

 黒部ダムが建設された「青柳平」は現在でこそ日光市役所栗山支所などが置かれ、郵便局、令和5年(2023)に廃校になった栗山小中学校などがあるが、黒部ダム建設当時には人はほとんど住んでいなかった。米を育てる場所も極めて少なく、あわやひえを主食としていたその静かな寒村は、藤原・今市と同様に黒部ダムの建設開始とともにたくさんの土工の流入によって大きな変化があった。
 青柳平にはたくさんの鬼怒電関係者用の社宅が作られ、社宅の共同浴場は電気で湯を沸かすシステムが備えられた。
 婦女子は内職をやめて賃金の高い作業地内の軽作業に従事し、多少の資本を持つ者は新たに飲食店を経営するなどした(絹川亭、大和屋など)。そのようにして飲食店は増えたが、これらは鬼怒電関係者が多く利用したため、地元の人々はそれらを避けるように飲食店に出入りする者は減った。
 その他、旅館としては「山口旅館」「小松や旅館」等も開業し、鬼怒電関係者で賑わった。これらの旅館は今はもう営業していないが、子孫の方々は今も青柳平にお住まいである。
 村内の販売力や賃金は向上し、したがって物価も上がった。生活用品は3割・4割ほど高騰し、今市で一升45銭の酒は栗山では70銭になった。栗山村の特有産であるはずの椎茸や炭でさえ、需要の高まりを受けて異常に高騰した。しかし野門や川俣は工事の好景気は微塵も無いにも関わらず、物価の高騰の煽りを受けて住民の生活は苦境に陥った。
 土工たちは独身者がほとんどで、婦女子に対しての怪しい行為は甚だ多かったというが、その後の難を恐れて事件は公にならない事が多かった。危険を恐れた婦女子は夜には一切外出をしなかった。
 また土工たちは空カゴを持ち歩き、昼夜の区別なく人の家の中や畑から菜、大根、芋などを盗み、私有山林で木を切り倒して盗んだり、無断で敷地内に軌道を敷くなどの暴状を行った。これを住民が咎めると、住民はただ暴力を振るわれるだけの大損に終わった。

 しかし栗山村の経済状況はそれまでと一変し、富の進度は不自然というよりも最早病的であった。従来栗山の男性は山に入って製炭、製材に従事し、女性は少々の農耕を営む他、小休戸まで炭や木材を駄馬にて運搬し、日に30、40銭の賃金を得ていた。しかし鬼怒川水電起工後は木材の運搬や伐採で日に2円、女子は小休戸までの運賃は1円50銭以上、砂利を運ぶ仕事は70銭~1円20銭を得られるようになった。自ずと奢侈しゃしの風は増長し、生活程度は遥かに豊かになった。従来、栗山村民は稗を常食とし、米のみの米飯を食するのは正月、盆、追善供養の日くらいであった。しかし鬼怒川水電の起工後は日雇い労働者、職工、売店開業者は言うに及ばず、農耕者も稗飯を避け米飯に変わった。塩鮭も以前は珍重されたが、以前の3倍もの価格がついた鮮魚、一升70銭の鱒などが栗山村民の嗜好となり、牛缶、福神漬、ビール正宗は愛好必需品となった。それまで鮮魚、ビール、缶詰等は栗山村民が味わったことのないものだった。これらの贅沢品が今市より大笹峠を越えて栗山に入ってくるのは空前のことであったのだ。
 同地の青年の一部には洋服を着て靴を履いて時計を光らせ、絹の布を首に巻いてシガーをくゆらせビールを飲み、今市に出て豪遊を試みる者もいた。
 新聞記者が今市駅で見かけた栗山村の青年の記事があるので、ここで読みやすく引用する。

 私(記者)が栗山視察を終えて28日に帰途に就いた際、今市駅で汽車に同乗した栗山の20歳ばかりの青年は、付添人に今市駅まで見送られ切符まで買い与えられて宇都宮に向かう途中だった。これからどうするのか尋ねると、栗山にも洋服屋はあるが裁縫が拙いので宇都宮まで洋服を仕立てに行くのだという。紺色の絹の背広をまとい、編み上げのゴム靴を履き、敷島(筆者注:紙巻きタバコの銘柄)をくゆらせて腰にはタバコ入れを下げ、襟カラーとネクタイをうまく付けられていない格好の加減は滑稽猿猴(筆者注:猿猴とはサル類の総称)である。また、馬子の女子が急に装いを変え、紅のたすき、紺飛白(筆者注:紺のかすり)を身に着けはじめ、山家の婦人も絹布をまとい、一見別人のようである。
 栗山人は冬季、木綿の綿入れの代用として今市に唐辛子を買いに行くが現在はそんなことはしない。以前は客用の布団などは名主の他、せいぜい2~3戸が持っているかどうかの物であったが今は各家に夜具布団の2、3組を持たない者はいない。敷布、座布団、柱時計、茶道具、やかん、膳椀、皿や鉢を整備し、さらには書画骨董にも手をつけようとしている状況で、ただ五里霧中に彷徨っていた者が一夜にして大名になるかのようである。「小人罪無し玉を懐いて罪有り」(筆者注:誰でも本来のままなら罪を犯すことはないのに、身分不相応の財宝を持つと罪を犯すようになること)、栗山の現状は不安定に積まれた卵のように見える。
(引用:今市関係新聞記事資料 明治・大正編)

土工の人数

 鬼怒川水力電気㈱より工事を請け負ったのは、大丸組(鈴木辰五郎以下4,830人)、早川組(早川昇策以下2,016人)が大勢を占めた。特に大丸組は鬼怒電工事の3/4を受注し、右馬脊場みぎませば(川治周辺の沢の名前)から下滝までの隧道工事やくろがね橋の架橋、下滝発電所や水圧管工事などを担った。 一方の早川組は黒部ダム、その引水口、右馬脊場までの隧道掘削工事を担当した。ただし黒部ダム工事は鬼怒川水力電気㈱の直営工事であったため、早川組は人夫を派遣するにとどまった。
 人夫は鳶職、大工、石工、木挽きなどで構成され、ひと月毎に約3,000名の移動があった。人員は常に一定せず、しかも常に2割(!)は負傷や疾病で休業していた。

土工の生活

 昼夜を問わず突貫工事で行った鬼怒川水力電気の建設工事であるが、当時の新聞ではその工事現場のことを「地獄の一丁目」と呼んでいた。
 衣食住の環境は極めて粗末であったが、その凄惨な様子を「藤原町史 通史編」から引用してみよう。

 当時の下野新聞によれば、鬼怒電工事地はまさに現世の生地獄の様相を呈しており、工事地の飯場は「監獄部屋」と呼ばれ、土工や人夫らは、激しい抑圧と搾取そして虐待の中で労働を強いられていた。
 彼らは「熊笹や亜鉛にて葺き周囲には粗末なるこもの類を掛け自然木のはりも生々しく床は地面より高きこと僅かに1尺か8寸(筆者注:24~30cm)なる上に薄きござを敷き」といった小屋に、20名くらいが「布団2、3枚に3人、4人が団子のようになりて」寝起きした。雨が降れば「付近の泥水氾濫して寝所に流れ込み、屋根漏る雨滴も海抜高き山間の夜は殊に冷たく東京地内の貧民窟に見られぬ」ありさまであった。小屋の周囲は、肥桶より流出した糞尿や多くの排便で悪臭が立ち込め、不潔極まりなかった。
 食事は、「南京豆のボロボロしたので朝晩は塩鮭を茹でた塩辛い湯の中に味噌を投げ込んだ汁を出し、昼は切干や豆の塩煮を食わしますが、其のまた飯を食う時が大変で愚図愚図して居ると他の者に食われてしまって自分の食うものが無くなってしまう。大だらいに入れた飯、バケツに入れた味噌汁、一日に2食の時も珍しくありません」といった状態であった。

「藤原町史 通史編」 藤原町町史編纂委員会篇

 凄まじい。
 そんなところには一瞬たりとも足を踏み入れたくないし、そんな不衛生な食べ物は目にことさえ不快というのが現代人の感覚だろう。
 実は工事現場で労働に従事する土工のほとんどは、全国各地に派遣された勧誘人による誘拐同然の手口で連れてこられた者達であった。
 彼らの多くは東北から九州までの他県出身の者や朝鮮人であり、農家の子弟、商店の丁稚奉公の子どもが甘言に乗ってしまった例も多く、中には前科者や犯罪者も多かった。
 もともと土工や人夫を職業とする気の荒い頑強な者や無頼者はまだしも、工事の何たるかも一切知らない誘拐されてきた土工は現場に不似合いな者も多く、その工事現場や飯場の険しさだけでも心身ともに大きな苦痛を伴った。

 一日に支払われる日当は額面上は悪くなかったが、まず一番始めの「土工が勧誘人に連れられて他県から工事現場までたどり着く経費」は土工自身が負担させられた。もちろん金はないのでこれは会社からの借金となったが、そのため遠く九州地方などから来るものは到着した時点から多額の借金を抱えているという状態だった。さらに飯場頭によって法外な上前をはねられたり、食事代や住居費を高く設定し、布団にまで貸料を取るなど徹底的に搾取がなされた。草鞋を買い、少しの酒を飲むと残りはわずか。しかも雨が降って工事現場の仕事がなくなると、食事代等の生活費を払うだけで大きな赤字となった。そのため、結果的に土工の多くはここに来る前よりも困窮した。飯場内に物を置いておくのは問題外で、気の利いた者は所持品の全て(最も大した貴重品などなかったが)を身につけたまま作業に従事した。
 賭博は非常に盛んで、料理屋から山林中に至るまで、どこにでも賭場が開帳された。給料日になるとそこにもここにも賭場は開かれ、また人混みで溢れ、その風紀は甚だ険悪であった。常習者も多く、貸し借りによる傷害沙汰は日常茶飯事であった。

 土工たちは、現代を生きる我々が憲法で保証されている「居住、移転及び職業選択の自由を有」していなかった。現場監督は何かと細かい理由をつけては大きな棍棒で土工をしたたか殴り、その扱いは牛か馬のようでとても人間に対するものとは思われなかった。
 無論脱走を企てる者も多かった。大丸組は旧盆後、一度に所属する土工の3割の数の逃亡者を出し、組は逃亡監視者として毎日60名ほどの人員を割くに及んだ。監視者は今市駅や栗山、藤原をつなぐ各所各所に見張りを置き、山々に生えていた草木は脱走者発見の邪魔になるという理由で焼き払い刈り払われた。そして不幸にも捉えられた脱走者には見せしめとも言える厳しい罰が与えられた上、監視にかかった費用を請求された。今市、大桑周辺に置かれた見張りたちは夜になると一般通行人にまで誰彼と詮索し、トラブルも多かった。
 暴力的な強制労働と拘束を受けて、助けを求める手紙を書こうにも、手紙は送られたものも届いたものも逐一検閲され、没収された。

 その非衛生的で、粗末な栄養状態で、精神的にも体力的も疲弊した土工たちはもれなく下痢症状を訴えた。そして、土工たちは滑落死したり、発破で爆死したり、感電死したり、岩盤が崩落して死んだり、台車に轢かれて死んだり、土工同士の喧嘩で殴られ、あるいは刺されて死んだりと、様々な形で死んだ。工事は極めて大きな危険と、そして死と隣り合わせで、疲労からくる不注意も重なって多くの死傷者をだした。
 死者は、手厚く葬られることもなく、工事中の穴に埋められたり、山中で無造作に焼かれたりした。
 病人や老人、大怪我で働けなくなった者は「十銭、二十銭の小遣いに結び飯と草鞋1足」で工事現場から放り出された。彼らの多くは疾病と飢えで、今市駅に辿り着く前に行き倒れになった。もっとも、今市駅にたどり着いたとしてもそこからどうにかできる手段を持つ者は多くなかった。

 生き抜こうと必死であったが、それが叶わない土工が多かった。その犠牲者の正確な数はわかっていない。

つづく。

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