小来川小学校滝ヶ原分校 (旧日光市の廃校 07)

住所:日光市滝ケ原3822

滝ヶ原分校跡
滝ヶ原分校跡

一求舎の誕生

 明治6(1873)年12月、小来川村の円光寺内に後の小来川小学校の前身となる「一求舎いっきゅうしゃ」が創立された。
 翌明治7年(1874)9月27日には境内に9尺2間の仮校舎を設け、開校の式典を上げた。明治5年(1872)の学制発布当時、日本各地に小学校が作られるわけだが、どの学校も校名を決定するのには非常に頭を悩ませたという(晃嶺学舎、時習舎、知新舎などなど)。一求舎の校名は論語に由来する。長くなるので要約すると、「自らは才徳兼備の人間を目指し修行するとともに、身につけるべき徳として人間はそれぞれ万能ではないことを理解し、人々の心理を思い好ましい人間関係を作るべきである」という意味である。新しく発足する小学校名にこの言葉を掲げ、子どもたちの健やかな成長を願った古の人たちの温かな思いが感じられる。

小来川村と板荷村の合併

 開校当時の小来川を取り巻く状況を見てみよう。
 明治期に小来川村は、短期間ながら板荷村いたがむら(現・鹿沼市板荷)と合併し、板来村いたこむらとなっている。当時は全国的に、明治23年(1890)から行われる町村制施行に向けて「一ヶ村最低500戸」という目標のもとに小さな村々の合併が強く勧められていた。そこで郡役所は小来川村(225戸)と板荷村(323戸)の合併を画策し、明治18年(1885)に半ば強制的に「板荷村他一ヶ村」という連合村とし、戸長を板荷村に置いた。
 だが両村は地理的に隔絶していたため、両村を結ぶ幹線道路の建設が企画、開始された。しかし工事が進むにつれ、工事代金の負担割合で意見が分かれた。「広い面積の小来川が負担金を多く出すべきだ」という板荷と、「住民が多い板荷が」という小来川では揉めるのは間違いないが、道路開通を希望したのはどちらかと言えば小来川側であり、また頭数の多い板荷の言い分が通ったこともあり、内心不満ながら工事は進捗していった。
 しかし最終的には、受益者割りの工事費負担が当時の小来川の人々には重すぎたということもあって、道路工事は途中で頓挫してしまった。

 どうにも利害が一致せず、これでは合併した意味がないということで、明治20年(1887)には分村運動がおこった。その後明治22年(1889)に正式に「板来村大字小来川」となる訳だが、正式合併以前からすでに分村運動がおこっていたのだ。
 この運動は合併によって収まるどころか返って激しさを増し、何度かに渡る嘆願の末、明治26年(1893)には「一切の遺恨なし」として分村の和解が成立し、同年6月7日付で正式に独立自治村の板荷村、小来川村として再出発した経緯がある。

滝ヶ原分校

 さて、その様な経緯を念頭に、滝ヶ原分校の様子を見てみよう。
 前提として、校名は「○○立△△小学校」となるわけだが、小来川小学校の場合、黎明期の校名の部分が文献(日誌や卒業証書、校印など)によって統一されていない。これはやはり板荷との短期間の合併によるものが大きいと考えられる。
 明治7年(1874)9月27日に正式に開校式典を挙行した小来川小学校は、同時に滝ヶ原の地に「滝ヶ原分校」(*1)を設置した。
 その後明治18年(1885)には前述した連合村となり「公立小来川小学校」の印があり、さらに「板来村立小来川小学校」「板来第二尋常小学校」の時代が何年か続くが、現存する卒業証書をあたっても、その確実な年次は不鮮明である(物語郷土史おころがわ)。
 その後、本校、分校共に幾度かの校名変更を行い、明治33年(1900)発布の改正小学校令により分校が形ながらも独立し、「小来川第二尋常小学校」とした。明治39年(1906)6月、本校に高等科が設置され「小来川尋常高等小学校」となったことを期に、第二尋常小学校を「滝ヶ原分教場」と定めた。

滝ヶ原分校地図
滝ヶ原分校の地図
滝ヶ原分校の平面図
(*1)滝ヶ原瀧尾神社の境内にあった滝ヶ原分校(明治時代)
滝ヶ原の瀧尾神社境内
上記地図の校舎の場所には非常に古い建築物が残るが、これが分校であった可能性もゼロではない。
滝ヶ原の瀧尾神社境内
階段を登った先にある滝尾神社の社務所。これも古い建物だ。

 それまで小来川村内には高等科がなかったため、児童の多くは4年生で学業を終えたが、中には親戚を頼って他町村の高等科へ入学する者や、徒歩で南側の峠を越え、西大芦村にしおおあしむらの西大芦尋常高等小学校へ通う者もあった。
 当時は当然道が悪く、更に下駄履きであったため、滝ヶ原や小来川から通学するのはかなりの困難があった。そのため殆どの女子は4年生までしか学校に通えなかった。
 もちろんそれまでも高等科設置の陳情は度々郡役所に出されてはいたがなかなか実現せず、日露戦争の勝利というお祭り騒ぎの雰囲気の中で、この小来川への高等科設置が実現したという。

 小来川地区は明治の中頃を過ぎると植林事業が安定して材木販売を行うことができるようになった。滝ヶ原は峠を一つ超えると日光町になるという地理条件に恵まれ、明治23年(1890)の日光線の開通や明治39年(1906)の日光電気精銅所の設置に伴い、発展を続ける日光町が必要とする木炭の販売が軌道に乗り、集落の数こそ少ないながらも好景気に沸いた。
 大正14年(1925)に校舎を滝尾神社から現在の滝ヶ原公民館(*2)の場所に移し、校舎も校庭も大きくなった。これは児童の増加により校舎が狭くなったことを受け、区長の佐藤専吉が1反2畝20歩の土地を提供したことにより実現した。その後の昭和28年(1953)、小来川の本校が校舎を新築したことにより、旧校舎の一部を滝ヶ原に移築し職員室と図書室を備えた。また佐藤七郎平が校舎敷地として山林を一部提供し校庭を拡張したため、校庭は従前の4倍もの広さになった。

滝ヶ原分校
在りし日の滝ヶ原分校
滝ヶ原分校の平面図
(*2)移転した当時の滝ヶ原分校
滝ヶ原分校の平面図
(*2) 移転後、拡張された滝ヶ原分校

 しかし歴年の卒業生を数えても分校の生徒数は少なく、たとえ個別指導が可能であるとか生徒と教師の親密度が増すという利点を念頭に置いたとしても、一つの教室に黒板3枚、その黒板を2学年ずつで使うという教育環境はお世辞にも良いとは言えなかった。
 昭和31年(1956)3月、日光市(旧)教育委員会の定例会で、市内の複式学級校の所野、山久保、滝ヶ原の3校に対する複式解消のため、日光市内の学区の再編成が議題に上った。特に滝ヶ原分校は、1年生から6年生までが1学級となる「単級」の恐れが強くなっていた。
 教育委員会は父兄の意向を把握するため調査を行ったが、父兄には積極的な意向は見られず、継続審議となった。
 それから5年間以上に渡り、教育効果の反映であったり児童の社会性に及ぼす効果であったりの呼びかけが行われ、昭和38年(1963)、ついに本校への統合の方向で決着がついた。その主な合意内容としては、
1. 定期バスの運行が通学に差し支えないダイヤになるまで、スクールバスを保証すること。
2. 電話は無償で佐藤栄七氏宅に払い下げ、滝ヶ原地区で維持すること。
3. 校舎と教員住宅は無償で地元へ払い下げること。その後校舎は公民館に改装の方針であること。

などであった。同年3月28日、分校の廃校式が行われた。

 現在、校地跡は滝ヶ原公民館として使用され、滝ヶ原地区の間伐材を利用して建てられたログハウス風の建物「瀧木ハウス」となっている。

  • 明治7年(1874)9月27日 一求舎が円光寺内に仮校舎を置き開校式を挙行する。同時に滝尾神社内に一求舎滝ヶ原分校を設置する。
  • 明治16年(1883)4月 本校の改称に伴い、小来川小学校滝ヶ原分校となる。
  • 明治18年(1885) 行政上、「板荷村他一ケ村」と称したため、「板来第二尋常小学校」並びに滝ヶ原分校となるが、翌年には本校が「公立小来川小学校」と称したため「公立小来川小学校滝ヶ原分校」と称す。この時期は正確な校名の判断は不明である。
  • 明治34年(1901)4月 本校を「小来川第一尋常小学校」、分校を「小来川第二尋常小学校」とする。
  • 明治39年(1906)6月 本校に高等科を置き「小来川尋常高等小学校」と改称。それに伴い「滝ヶ原分教場」と改称する。
  • 大正14年(1925) 分教場を現在の滝ヶ原公民館の場所に移転。
  • 昭和16年(1941) 「小来川村国民学校滝ヶ原分教場」と改称。
  • 昭和22年(1947) 「小来川村立小学校滝ヶ原分教場」と改称。
  • 昭和23年(1948) 「小来川村立小学校滝ヶ原分校」と改称。
  • 昭和28年(1953) 本校の増改築で、旧校舎を滝ヶ原分校に移築した。
  • 昭和38年(1963) 本校への統合が決定し、廃校となる。
滝ヶ原分校跡 分校ここにありき
滝ヶ原分校跡 分校ここにありき
滝ヶ原分校跡 遊具
滝ヶ原分校跡 遊具
滝ヶ原分校跡 遊具
滝ヶ原分校跡 遊具
滝ヶ原分校跡 遊具
滝ヶ原分校跡 遊具

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