小休戸の延命地蔵尊と斎藤家

 拙ブログでは今まで複数回に渡り小休戸について記事に取り上げてきた(「小百小学校小休戸分校」「小休戸の鹿地蔵」、「鬼怒川水力電気」など)。
 今回は小休戸集落のなかでも、書き漏らしていた有名な小休戸延命地蔵尊と斎藤家住宅について書きたいと思う。

 まず小休戸集落の歴史を簡単におさらいしてみよう。
 記録によると、小百から栗山に通じる途中の小休戸は元禄年間(1688~1704)には集落があり、大笹峠を越えて馬や人の背によって運ばれる生活必需品等の中継地として栄えた記録が残っている。
 明治末から大正時代初め(1910~1913)にかけての鬼怒川水力電気の黒部堰堤工事の頃が当地の最盛期であり、戸数は20を越え、小百小学校の小休戸分校が開校した。
 その後、昭和16年(1941)に川治温泉と栗山村を結ぶ自動車が通れる道が開通されると、小休止は荷の中継地点や荷の受け渡しといった存在意義がなくなったことにより、当地の交通はほとんど途絶した。
 その辺りのことは重複となるので以前の記事で確認していただきたい。

小休戸延命地蔵尊

小休戸延命地蔵尊
小休戸延命地蔵尊

 今も赤い頭巾と前掛けを施された小休戸延命地蔵尊は、享保4年(1719)、小百から栗山に通じる大笹峠の交通の安全を願い、小百村の沼尾重衛門、高畑村の八木澤康衛門によって建立されたものである。祠には腰ほどの大きさの延命地蔵尊を真ん中に、向かって左手には小さな石仏、右手には「南無延命地蔵大菩薩」と彫られた石碑がある。

南無延命地蔵大菩薩

 それらを覆う祠は平成5年(1993)に周辺地域の住民の浄財によって建設されたもので、労働力は無料奉仕で述べ21日、72名の労力で建設された。
 施主は今市市相之道通りの石岡薬局の石岡氏、発起人は小休戸の斎藤利之と大桑の石井廣志、建築棟梁は大桑岡村建設の岡村七郎、製材は豊田信製材の沼尾信一であった。

 ほとんど人通りがないこの道沿いの地蔵尊が今もしっかりと管理されおり、神酒や花が添えられているのが非常に印象に残っている。

南無延命地蔵大菩薩

 「南無延命地蔵大菩薩」の石碑には、四面に以下のような字が彫られている。

正面梵字「力」 南無延命地蔵大菩薩
右面本願施主
右路供養宝塔造立志者億二世取□□
朋力施主
左面 節
当今
 季
享保四巳亥年 十一月上旬
本願 小百村沼尾重衛門
本願 高畑村八木澤康衛門
裏面木曽一同

 ちなみにこれらの祠が完成した平成の当時、賽銭箱が破壊され盗難されることが何度もあったそうだ。「罰当たり」と呼ぶだけでは全く足りないこの所業、悲しくなるばかりである。

斎藤家住宅

 続いて、今は無住になってしまった明治元年(1868)に建築された斎藤家の様子を見てみよう。

斉藤家 小休戸

 斎藤家住宅は旅籠としての役割を持ち、その他にも栗山から運ばれる炭と今市から運ばれる食料や酒、郵便の中継地となっていた。
 以下はその造りである。

小休戸の斎藤家間取り図

 間取り図は以上のとおりであるが、厩(うまや)や火を扱う炉を除いた天井は低く作られており、これはこの当時の旅籠に多かった造りで、室内で刀などを扱えないようにとこのようになっているらしい。

 今市の近世の様子を物語る貴重な家屋であるが、何度も言うように今は無住であり、どうしても人の手は行き届かなくなる。こういったもの全てを手厚く保護するには非常に潤沢な予算が必要とされるのだろう。
 なんとか出来ないものかと、歴史探索で栗山を訪れるたびにそう思っている。

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