高原新田宿と川治温泉 1

 皆さんは「日光市の高原(たかはら)」と聞くと何を思い浮かべるだろうか。僕は「高原大根」だった。鶏頂山の中腹に鶏頂開拓があり、メイプルヒルスキー場の側、すなわち雪がたくさん降る、というくらいの知識しか持ち合わせていなかった。
 今回は高原新田宿と川治について調べた。前回の「川治小中学校」の記事と文章が重複するところもあるがご容赦願いたい。

会津西街道

 会津西街道の原型はいつ頃できたのかは定かではないが、今市地方から出土される縄文、弥生式土器は会津や越後方面からの影響を受けていることが確認できるため、その頃から人の往来が可能な道が有ったことが考えられる。また、天正18年(1590)8月、会津の仕置を済ませた豊臣秀吉は帰路にこの道を通っているため、当時すでに会津西街道の原型は出来ていたのは確実であるが、この街道が大きく発展したのは江戸時代になってからである。
 江戸幕府の幕藩体制の中で、東北地方と新潟(越後、北陸)方面への岐路となる会津地方は幕府にとって軍備、物流的に重要な地点であった。そこで幕府は寛永20年(1643)、3代将軍家光の異母弟となる保科正之を会津藩に置いて東北への睨みをきかせた。
 会津西街道はその保科正之の時代に大きく整備され、江戸時代、会津地方では「南通り」「南山通り」「下野街道」などと呼ばれていたが、これはいずれも会津地方から南へ下るためにその呼び名がついたものである。逆に下野地方からは「中奥街道」「会津道」などと呼ばれており、「会津西街道」の呼称は比較的近年になってからのものである。この街道は総じて会津若松城下から山王峠を越え、「高徳で鬼怒川を渡河し、今市宿を結ぶ道」を指すのが一般的であるが、「高徳から船生を通り、鬼怒川の河岸の中では最上流となる氏家の阿久津河岸に至る道」も「会津西街道大宮通り」としてこの街道の一部となっている。
 会津藩の参勤交代の本来のルートは猪苗代湖の南岸を通って白河に出て(白河通り)、そこから奥州街道を進むものであったが、保科正之は日光詣や江戸への往復にこの会津西街道を重用した。それは多くの他領を通る際の接待応接や手続きの煩わしさに比べ、会津西街道は下野までを自領で行くことができるため、気が楽であったことが原因である。
 当時の各藩の財政は領民が年貢として収める米を売って金銭に換えるというものだったため、藩による道普請は単に歩きやすく道路を整えるだけでなく、人馬を用意する宿駅を置き、確実に大都市江戸までの継送りの公用機関「宿駅伝馬制度」を整えることが重要であった。「宿駅」とは街道沿いの集落で旅人を泊めたり、荷物を運ぶための人や馬を集めておいた宿場のことで、「伝馬制」とは幕府の公用の書状や御用荷物を目的地まで運ぶため、次の宿駅で別の人足と馬に交代して荷物を積み替え(「継立て」という)、宿駅間をリレーして運ぶことを言う。各宿駅では問屋(とんや、といや)と呼ばれる役割を始めとした宿役人が決められ、伝馬朱印状を持つ公用の書状や荷物を無料、あるいは低廉な賃金で次の宿駅まで運ぶことが役割であった。
 宿駅が預かった荷の輸送の範囲は原則として隣の宿駅までで、これを越えて運ぶことは禁止されていた。各宿駅では定められた数の人馬を用意しておかなければならず、その決して少なくない負担は宿駅の役目であったが、その見返りとして宿駅の人々は年貢が免除されたり、旅人の宿泊や商人の荷物の継送りを行って料金を徴収することが出来た。
 栃木県域の会津西街道はほとんどが旧藤原町が舞台となるが、旧藤原町域では例外なく名主が問屋を兼ねた。

高原新田宿

高原新田宿とは

 高原新田たかはらしんでん宿は会津西街道の高原峠に置かれた宿駅である。現在の日塩もみじラインの途中の鶏頂開拓の辺りに存在し、高原村とも、高原新田村とも呼ばれていた。
 以下が高原新田宿の置かれた周辺と旧・会津西街道(緑の点線)の地図である。川治を通る現在の会津西街道とは道程が違うことがわかる。

高原新田宿の周辺と旧会津西街道
高原新田宿の周辺と旧会津西街道(地理院地図を利用して作図)

 現代の我々の感覚からすると、「なぜわざわざあんな山の上を通っていかなくてはならないのだろうか」と思ってしまうが、それは五十里(現在は湖底)、川治や龍王峡のあたりは垂直に切り立った岩盤が男鹿川や鬼怒川までせり出しており、当時の土木技術では道を掘削することが難しかったからである。そのため、急坂で難儀ではあるが、人馬が転落死してしまう可能性が(比較的)少ない高原峠に街道が作られたという事情がある。

 そもそもの高原新田宿の成り立ちは江戸時代の初期の承応2年(1653)、下総(現在の千葉県北部と茨城県南西部)から来た「香取久左衛門」が会津西街道の高原峠を往来する旅人相手に茶店を開いたのが始まりといわれる。それまでの会津西街道を南から見てみると、高徳村・大原村・藤原村・弐ツ屋村・五十里村となっており、高原は藤原から五十里、もしくは塩原をつなぐ道ではあったが集落は存在していなかった。
 その後の万治2年(1659)に現在の福島県と栃木県の県境付近を襲った大地震を経て、塩原村の元湯(現・那須塩原市の元湯温泉)の村民の一部がこの土地に引っ越したことにより村の原型が形成された。

元湯

塩原温泉元湯古絵図(那須塩原市有形文化財)
塩原温泉元湯古絵図(那須塩原市有形文化財)

 「元湯」はその名が示す通り塩原温泉発祥の地であり、温泉の発見は大同元年(806)と伝えられる。かつては「元湯千軒」と称されるほど賑わった湯治場は外郭の長さ約100m、幅約30mで、寛永年中(1624-1643)の最盛期には85軒を数え、百姓48軒、水呑・前地8軒、勤番所(本陣)が1つ、通りの中央に湯屋8つと、温泉神社(湯泉ゆせん大権現)と別当の湯泉寺とうせんじ、さらに円谷寺えんこくじがあった。中央の通りを挟んで家が並び、間口は2軒半(約4.5m)で統一されていた。
 万治2年(1659)2月、現在の福島県と栃木県の県境付近で大地震が発生し、元湯は山津波によりほぼ壊滅状態となり、多くの死傷者を出し湯口は塞がった。万治地震の後の江戸中期頃に描かれた「塩原温泉元湯古絵図(那須塩原市有形文化財)」には地震以前の元湯の街並みや2つの寺の由来が描かれており、後年に地震後の各戸の生死や移転先、復旧工事記録等が加筆されている。
 この図によると、生き残った村民たちは生活の糧を失ったため移住を決意し、新湯へ10軒、下塩原に5軒、上塩原に3軒、その他に何軒か移転し、高原には6軒移転した。その後の寛文年間(1661~1673)には会津西街道最大の難所と言われた高原峠に、村としての共同体が出来上がったと考えられる。
 ちなみにこの万治地震によって山王峠は崩壊してしまったが、保科正之は人足約6,600人を動員する大掛かりな復旧・拡幅工事に着手した。これによって会津西街道は会津藩の廻米や藩の公用道としての機能が大幅に改良され、会津地方から日光・今市、江戸方面への流通量を増大させることに成功した。このようにして会津西街道を通る荷物の量は年々増えていったが、高原峠は高所難所であったため、延宝5年(1677)、五十里村は奉行所へ嘆願書を提出し、「五十里村と藤原村の間の高原峠に宿場を作り、ここで折り返しすれば人馬ともに助かる」と高原新田宿の公認を申し出ている。それによると「五十里村は40両を借り入れて駄馬36頭を買い入れ藤原村までの継立てをしていましたが、その借入金の返済が終わる前に危険箇所の往復で駄馬を6頭も失い、さらには藤原村までの往復に耐えうる馬は20頭ほどまで減ってしまいました。これ以上馬が減ってしまっては生活が成り立ちません」ということである。この頃にはすでに高原峠に拓かれた村に於いて、何らかの形で実質的に駄賃稼ぎが開始されていたのだろう。高原新田村が正式に「高原新田宿」として宿駅の機能を持つようになったのはそのすぐ後である。
 高原新田宿は江戸時代の殆どを通して宇都宮藩領として藩の最北端に位置し、幕末の慶応2年(1866)に高徳藩が立藩してからは高徳藩領となるが、それは明治維新を迎えるまで僅か4年間程だった。
 「新田しんでん」とは新たに田や畑などのため開墾して出来た農地のことであるが、標高約1,200mの高冷地のこの場所は稲作に適した土地ではないため田畑はほとんど無く、収入は駄馬による駄賃稼ぎであった。駄馬たちは昼間は荷を運ぶ仕事をし、夜は原野に放たれて笹などを食んだ。
 そして冬にもなれば大雪が降り、数ヶ月の間完全に通行止めとなり人の往来は途絶えた。
 さて、寛文年間(1661~1673)の村の成り立ちから約200年の間存続した高原新田宿の様子を見てみよう。

高原新田の生活

 集落の発生から間もない延宝4年(1676)、高原新田村の住民は代官所に文書を提出しており、そこには「村は役所からお金を借りましたが、返済期限である寛文11年(1671)を過ぎているにもかかわらず伸ばして頂いて助かっています。まだ雪が多くて街道の往来が途絶えているため、収入がなく返済の目処が立っていません。6月にもなれば少しの作物も出来ますので、合わせてお返ししたいと思っています」という内容の事が書かれている。おそらくこのお金は高原峠で新たな生活を始めた住民たちが荒れ地を耕し、駄賃稼ぎに必要な駄馬の購入などに充てられたものなのだろう。

 「寒村のひなびた村」というイメージを持つであろうこの高原新田宿の町割りを見てみよう。以下の頭は郷土史家の大塚健一郎氏が作成した江戸後期の高原新田宿の町割りである。南方(地図左下)の藤原村から急登を上ってきた会津西街道はこのあたりで平坦地となる。

高原新田宿の町割り
高原新田宿の町割り(大塚健一郎氏の図より作図)
高原新田宿

 藤原方面から宿内に入るといくつか点在する墓地があり、右手には多くの墓石が並ぶ村の共有墓地が見える。問屋(庄屋)の大塚家をはじめ高松家、高丸家、香取家、君島家の近世の歴代墓石や、村内に点在していた石仏が集められている。

高原新田宿の共同墓地
高原新田宿の共同墓地

旧高原問屋屋敷跡

 宿跡の中央にある「旧高原問屋屋敷跡(日光市指定文化財)」。問屋(庄屋)を務めた大塚家の屋敷跡である。この史跡は江戸時代の石垣と礎石を主とするもので、南側は通りに面して入り口が2ヵ所
東側は隣接する畑地との段差が大きく、排水路が通っていることもあって欠損が目立つ。西側の石垣は取り壊され現在は農道になっている。北側(屋敷裏)は庭園の形式を留め、池、築山(つきやま)などの跡が今も確認できる。

高原新田宿の問屋・大塚家の屋敷跡
高原新田宿の問屋・大塚家の屋敷跡

 大塚家を過ぎた右手には、宿の組頭を務めた高松家があった。高松家の蔵には「旧高原新田村関係文書(旧高松家文書)」が残っており、これが高原新田宿の生活の様子を知るために重要な役割を果たした。

 吉田松陰の残した「東北遊日記」によると、長州藩を脱藩した松陰は嘉永5年(1852)に盟友の宮部鼎蔵みやべていぞうらとの東北旅行の際に高原新田宿を訪れたことが記されている。松陰は嘉永4年(1851)の暮に江戸を発ち、出羽、陸奥と旅を続け、翌年の春、3月30日にこの地方を旅した。早朝に田島を出発した二人は日光廟と足利学校を見るために南下し、山王峠を越えて下野に入り、「上三依、中三依を経て、五十里に至る。澗流稍大なり。高原嶺あり、よじ登ること2里余りにして初めて其の頂きを得」と書かれたように、急峻な山道を越えて高原にたどり着いた。松陰は高原新田宿に一泊し、翌日日光に向けて出発した。ちなみに田島からここ高原新田宿までは11里、すなわち44kmあり、高原新田宿から日光までも11里ある。会津西街道の剣難な道をわらじでスタスタと進む昔の人々のその脚力につくづく驚愕する。

湯泉寺跡

湯泉寺の石灯籠
湯泉寺の石灯籠 天保6年(1863)

 宿の北には湯泉寺跡がある。延宝3年(1675)、高原新田が出来てから16年後に元湯から移された塩湯山医王院湯泉寺えんとうざん いおういん とうせんじで、真言宗の寺院であった。高原新田宿はその成り立ちからして湯本塩原村とは一村同様として扱われており、住民のもともと菩提寺は元湯にあった円谷寺である。そのころ湯泉寺はほぼ無住となった元湯で荒廃しており、その本堂が高原新田宿に移築され、宿坊として利用された。
 寺の痕跡は全く残っていないが、道を挟んだところに天保6年(1863)の石灯籠がある。これはかつて湯泉寺の参道に対になって建っていたものだという。鶏頂山大権現、高原新田村の大塚傅十郎、香取儀三郎、宇都宮の岡崎為右衛門、会津の石工・加蔵の銘がある。
 また、古老いわく、このそばに鳥居の基礎が残っていたということだが今はその場所は不明である。

石仏群

元禄7年(1694)馬頭観音碑
元禄7年(1694)の馬頭観音碑

 宿の北端には鹿よけのフェンスが張り巡らされており、そこには大小の石仏、石塔が置かれている。最も目を引くのが約142cmの大きさの元禄7年(1694)建立の馬頭観音碑であり、これは旧藤原町域の中で最大と言われている。

法華題目道標

法華題目道標 万治3年(1660)

 画像は高原新田宿の北の外れにある「法華題目道標(日光市指定文化財)」である。万治3年(1660)庚子四月吉日の年号があるがこれは万治地震の翌年である。塔の高さは約135cmで、陽刻された日月と「南無妙法蓮華経」、「右塩原道 左會津道」、「山城住人 大屋長玄」とある。かつては塩原湯元と五十里との追分に置かれていたがその正確な場所は不明である。
 日蓮宗の題目であるこの石塔が高原新田宿に置かれた理由も不明である。高原新田宿にあった寺院は延宝3年(1675)に元湯村から移された塩湯山医王院湯泉寺えんとうざん いおういん とうせんじで、真言宗である。「大屋長玄」なる者は高原新田宿の住民に該当するものはおらず出自は不明で、なぜ集落が拓かれた翌年に大屋が日蓮宗の道標を建立したかは定かではない。


 これらの史料・史跡からは、極寒の高地にあった高原新田宿が大きな財力を有し、繁栄していた様子を伺うことができる。川治を通る現在の道が無かった当時は、道の構造上、どうしても高原新田宿を通らなければ今市と会津を行き来することが不可能であり、駄賃や旅籠の収入が間違いなく見込めたからである。
 しかし、高原峠は冬季は積雪により通行不能になる不便さがあり、険しい山道であり、何よりも遠回りな道だったため、自ずと高原峠を通らずに済む新道が構想されるようになってくる。
 発端は、仲附なかづけと言われる者たちである。

つづく。

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