今市小学校の石碑

 さて今回は我が母校である今市小学校についてである。
 今市小学校に通った方なら校門のところにそびえ立つ大きな石碑の存在をご存知であろう。

造林紀念碑(日光市立今市小学校)

 随分と前にこの石碑を眺めた時に、漢字がずらりと彫られた石碑の正面に「今市町」「渡邊佐平」の文字を読むことができたが、何せ長い漢文であり篆字で書かれたタイトルに至っては何を意味しているものなのか全く見当がつかなかった。
 おそらく「今市小学校の校地をどうした」とかが書かれているのだろうとそれ以上は調べることを失念していたが、ここで改めて内容を見てみたいと思う。

 小学校に脚立でも持って行って一字一字書き起こしてみようかと思っていたら(間違いなく叱られる)、平成12年に発行された「今市の記念碑(編:今市市歴史民俗資料館)」にこの碑の文面が記されていることを発見した。さすが歴史民俗資料館である。
 これを参照させていただきながら、石碑に書かれたことと時代背景を探ってみよう。

今市町造林紀念碑

造林紀念碑(日光市立今市小学校)

 写真のように、長年の風雪に関わらず文字自体はしっかりと判別できるが、大きく育った樹木のために下半分しか見ることはできない。
 「今市の記念碑」によると、この碑のタイトルは「造林紀念碑」(”記念”ではなく”紀念”)であるということだ。辞書によれば「紀念」と「記念」については全く同じ意味で、明治・大正期には併記も見られるが、実際の用例としては「紀念」の方が圧倒的に多かったそうだ。「記念」が一般化するのは昭和になってからのことである。

以下引用する。

造林紀念碑

■■■■■■■■■実為曠古之偉業故天下■■之記念事業下野今市町長
渡邊佐平有所深見招集町会提出山林経営案日記念曠古偉業当期雄大固不
可如雲消霧散取快一時者也満場一致義忽決焉三十九年先請国有原野山林
特売直著手整理四十二年成其功焉於是以下原之地十八町六反九歩充学林
植樹六万八千三百株以年峰外三字之地二十八町一畝十歩当町有植樹七万
百二十株企画経営得共宜爾来十五年于茲今也漸遂発育鬱鬱将為林蒼蒼将
垂蔭他日与月共長与年共大以為地方財政之基礎也必矣於是現在町長安西
貞治亦得町会協賛欲建碑以伝先任諸子遺徳于不朽請余銘銘曰

一年之計 無苦樹穀 十年之計 無若樹木
百年樹徳 偉業余福 以広公益 以資教育
日光街道 杉樹相連 九里株数 一万八千
正綱卓見 諸侯憮然 評価今達 百卅万円
以彼比此 広狭多少 旨趣所存 不比而瞭
謳歌我武 恢弘樹筆 千秋万歳 輝光四表

 大正十二年十一月
  栃木県知事正四位勲二等 山脇春樹篆額
       従四位勲四等 安達常正撰并書

今市の記念碑 編集発行:今市市歴史民俗資料館 平成12年12月25日刊

 冒頭に■■となっている部分があるが、これは長い年月により自然に摩耗して判別できないものではなく、明らかに人為的に削り取られている部分である。

造林紀念碑(日光市立今市小学校)

 日本においてこのように石碑の文字が削り取られているのは、「明治の廃仏毀釈時に破壊を免れるために銘文の改変がなされたもの」と、「太平洋戦争後、アメリカ進駐軍の命令で行われたもの」が多数を占めるのではないだろうか。
 この碑は大正12年(1923)の建碑であるため、おそらく文字は戦後になってから削り取られたものだろう。内容は今となってはわからないが(気の利いた方が削られる前の拓本を取っておいた可能性も大いにあるが)「日露戦争に大勝した」等の内容ではないだろうか。ただし毀損された部分は碑文の書き始めの「ご挨拶」的な文であると推察されるため、「文全体の意味」にはそれほど影響を及ぼさないと思われる。

 さて問題は、このずらりと並んだ漢文の内容だ。
 見慣れない漢字も幾つかあるが、辞書を引き意味を調べ、わからないところは豪快にすっ飛ばして大まかな内容を理解したいともう。

『造林紀念碑』
 今市町長の渡邊佐平は山林事業の経営案を町議会に諮り、満場一致で議決した。明治39年、国有林であった原野の払い下げを願い、明治42年成功した。下原の約18.4ha(東京ドーム約4個分)の土地を学校林に充て68,300株を植樹し、年峯その他3字の計29haの土地を町有地とし、70,120株を植樹した。
 以来15年、樹木は繁茂して薄暗くなるほどに生育した。これらは必ずや地方財政の基礎になっていくだろう。
 現町長の安西貞治と町議会は先人の遺徳をここに永久に遺すべく碑を立てる。
大正12年11月

 と、まあ細部はともかくおそらくこのようなことが書かれているのだろう。

時代背景と学校林

 渡邊町長が国有林の払い下げを願い出た明治39年(1906)~安西町長が建碑した大正12年(1923)とはどのような時代だったのだろう。
 明治18年(1885)、アメリカで植林活動を行っていた教育家のノースロップが来日し、一般および学校単位の植林活動の情報がもたらされた。文部省は学校単位の植林活動が愛郷心、愛国心、公共心などを養い、学校財産の造成にも有意義であると判断し、明治30年(1897)には文部省が各地方庁あてに官有地の貸下げ、払下げに関する通牒を発し、学校林による植林活動は全国的な運動へ発展していった。渡邊町長の発案もこの事によると思われる。
 明治37年(1904)~38年(1905)には日露戦争が勃発し、勝利した日本は戦勝ムードに湧いた。大正6年(1917)には下野軌道が大谷向ー中岩間に鉄道を走らせた。
 以下は当時の今市町長である。

歴代 町 長就任退任
6渡邊佐平明治37年(1904)10月1日大正2年(1913)11月17日
7高野留吉大正2年(1913)11月26日大正7年(1918)8月30日下野軌道社長を兼ねる
8安西貞治大正7年(1918)10月1日大正15年(1926)9月23日(在任中に死去)

場所を探る

今市町字下原

 文中に出てくる「下原」「年峯(としのみね)」とは字名である。
 まず下原であるが、これは現在の日光市立今市中学校の場所である。今市中学校は昭和22年(1947)、開発されたばかりの今市小学校の学校林跡地に建設された。当時は街道沿いの校庭の西隅から敷地を斜めに横切る芝山に通じる道があり、分岐点には大きな「学校林」の石柱があったという。この石柱は大正天皇のご慶事の記念に建てられたもので、御影石の立派な碑であったということだがその行方はもうわからない。
 ちなみに「斜めに横切る芝山に通じる道」は、雨の日に現・今市中学校の3階から校庭を見ると「その道筋が浮かびあがる」と、数年前の校長先生から伺ったことがある。

今市町字年峯

 もう一つの年峯とは現代の地図でいうと日光市平ケ崎の南側を指す。そこでふと、もう10年以上前にこの周辺の長畑方面と山久保方面の分岐の間に「今市町有林」と書かれた高さ3mを超える大きな石柱があったことを思い出した。探してみると、これは現在は50mほど西側に場所を移して現存していた。

今市町有林碑
今市町有林のあった場所(地理院地図を利用して作図)
今市町有林の碑
今市町有林の碑

 生い茂る草をかき分けて行かないと見ることはできないが、

今市町有林 大正四年五月建碑

字年ノ峯 字白欠前 字チヌキツネ 字笠間
山林反別貳拾八町五反壹畝拾歩
字年ノ峯 明治四十二年七月十二日設定
字白欠前外二ケ所 明治四十五年一月二十日設定

となっている。これは明治42年に国有林が払い下げとなり今市町有林になったという今市小学校の碑に書かれた内容と一致しており、第7代町長の高野留吉の時に建碑されたものである。小学校の碑には「28町1畝10歩」、町有林碑には「28町5反1畝10歩」と「5反」が抜けているが、これはどちらかが間違っているのだろう。

 字名の年ノ峯(年峰)、白欠前、笠間、チヌキツネはやはりこの一帯であり、下図で行川を挟んだこの円のあたりに北から順に年峯、白欠前、笠間、チヌキツネという小さな字名があったのだ。この周辺に立ってぐるりと見渡す限りの杉の森は現在でもほとんど全てが日光市の市有地であり、明治時代に植林がなされた場所なのだろう。

年ノ峯、白欠前、笠間、チスキツネ
年ノ峯、白欠前、笠間、チヌキツネ(地理院地図を利用して作図)

 日光市内にはたくさんの数の石碑が建てられているが、あるものは風雪によりその内容は判別できず、あるものは苔むして山林に埋もれ、あるものは近所の人でさえその内容を全く知らないということが非常に多い。
 当時の人々が「子々孫々にこの事を伝えたい」と思って建碑したものである。我々も、縁がある土地の石碑くらいはそのおおまかな内容を把握しておきたいと思った。

「いまいち市史 資料編・近現代Ⅱ」 今市市編さん専門委員会
「今市の記念碑」 今市市歴史民俗資料館

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