所野小学校 (旧日光市の廃校 05)

所野小学校の地図

晃嶺学舎第三分校

 明治7年(1874)3月に晃嶺学舎こうりょうがくしゃ第三分校として民家を借りて開校した歴史ある所野小学校は、令和2年(2020)年3月末で閉校となり、145年の長い歴史に幕を下ろした。
 明治の創立当時、所野村には寺がなく、そのため私塾を開いていた民家を借用して開校したと考えられているが、民家の持ち主、場所、及び3月の何日に開校したのかは判明していない。これは所野小の沿革史がずっと後年になって書かれたからである。
 「日光町立所野小学校一覧表(明治42年(1909)5月31日付。現存する記録で一番古いもの)」には、「明治24年(1891)以前は諸帳簿はもちろん、日誌等の如きも一切存在せず。取り調べ不詳の項多し」と書かれている。
 明治9年(1876)、現在地に間口5間(約9m)、奥行2間半、建坪12坪半の小さな校舎が新築され、翌明治10年(1877)に就学児童が32人(内男23人、女9人)との記録がある。しかし、新築されたわずか3年後の明治12年(1879)2月、暴風によって校舎が倒壊してしまう。これより再度校舎が新築される明治17年(1884)までの5年半の長い間、近隣の山県清作氏、山本杯吉氏の居宅を借用し仮校舎とする。
 当時、明治政府は学制を公布したものの、その壮大な思想に伴う財政を持ち合わせておらず、そのため校舎の建築は各村々の予算や地域住民の浄財により行うものであり、当時の所野村の経済状況の厳しさが伺える。
 仮校舎となった山本杯吉氏の住宅(*1)は昭和3年(1928)に火災で焼失してしまったが、山県清作氏の居宅は後に売却され、現在も日光市野口の高速道路のそばに現存する(*2)。間口が十間もある大きな家屋で、奥の8畳二間続きの部屋が仮教室になったと思われる。

所野小学校の仮校舎跡
(*1) 山本杯吉氏の住居があったと思われる場所
移築された所野小学校の仮校舎
(*2) 日光市野口に移築された山本清作氏の居宅。築150年を超える。

 明治17年(1884)に再度新築された校舎は間口6間半、奥行5間で、学校創立時より教員は磐裂神社の神主「北山又一郎」一人であった。所野小学校では初代校長という位置付けである。
 明治23年(1890)に晃嶺学舎四番分校が七里尋常小学校として独立すると、本校は「七里尋常小学校所野分校」と改称した。

下野製麻紡績会社(帝国製麻)

 明治29年(1896)に鹿沼市に本社があった下野製麻紡績しもつけせいまぼうせき会社(明治40年(1907)に帝国製麻となる)が所野に日光工場を開業すると、所野地区の住民が増えるに従い児童数は年々増加していった。
 下野製麻は日光駅から大谷川を挟んだ東岸、現在の東京電力所野第一発電所の場所にあった。明治23年(1890)に宇都宮駅と日光駅間の鉄道が開通し、その後この工場が操業すると、工場で生産される麻糸はその原料も製品も日光駅を通過することになり、対岸まで架けたトロッコ用の産業道路の橋の台座が今も大谷川の河川敷に残っている

トロッコの橋脚
紡績橋と呼ばれたトロッコの橋脚跡

 この台座は「みどり橋」として昭和のころに架かっていた歩行者用の小さな橋の台座に利用されていたが、「ふれあい橋」の架橋に伴い撤去され台座だけが残るものである。工場の動力として使われていた水力の設備は、現在も東電の所野第一発電所として利用されている。
 明治44年度(1911)に113人を数えた児童数は、大正6年度(1917)には63人と約半分まで減少する。これは帝国製麻(当時。現・帝国繊維株式会社)が鹿沼に移転したことに伴い、所野地区の住民が激減したことによる。帝国製麻は学校の事業を行うために大口の寄付をして学校を支えたが、それだけでなく工員たちの子弟が多く所野小学校に通っていたことが伺える。
 しかし翌大正7年(1918)には帝国製麻が復活し、児童も増加するが、なぜこの短期間のみ工場を閉鎖させたのかは不明である。しかし、鹿沼産の大麻を原料に使っていた日光工場は、その後の第一次世界大戦後の不況や、水に強く値段が安いマニラ麻の輸入増加などで、大正10年(1921)1月に本格的に閉鎖された。

下野聖魔紡績株式会社

戦後の所野小学校

 昭和22年(1947)、日光町立所野小学校と改称。終戦後であったためこの年に校庭にあった奉安殿が撤去された。
 この奉安殿は大正8年(1919)、寄付金209円20銭(内帝国製麻130円)と町より50円の補助を利用して校庭に建てられたものである(所野小学校創立百周年記念誌)。
 奉安殿は撤去後に破壊を免れ、日光市江之久保えのくぼの滝尾神社の社殿となったということで調べると、これは江之久保の旧道にあたる道の山中にあった。民家の軒先から登るので、住人と番犬の通行許可を得て、胸まである丈の笹をかき分け登り、更にその背後の崩れた道なき道を10分ほど進んだ山の中腹にかなり痛みの進んだ小さな社殿がある。
 現在は江之久保集落の鎮守様とされ、正月には近隣住民がお参りするそうである。境内に愛宕山、山神、稲荷大明神の石碑も置かれている。
 戦後にGHQの指令で日本全国の小学校から奉安殿が撤去されたわけだが、この例のように、廃棄を免れて地元の神社の社殿になったという例はいくつか見られるということだ。

所野小学校の奉安殿と思われる
所野小学校の奉安殿と思われる瀧尾神社

 ちなみにこれとは別に、所野小学校の側に滝尾神社と称される小さな社があるが、これは昭和39年(1964)、所野小の北側の丘に設置されていたものを校庭拡張のために移動したものである。

所野滝尾神社
所野滝尾神社

 その後、平成も半ばをすぎる頃には児童の減少が顕著化し、平成27年頃(2015)から徐々に複式学級(複数の学年がひとつになること)の形をとっていたが、令和2年(2020)、野口小学校とともに日光小学校に統合された。
 所野小学校に通っていた児童は所野小から日光小までスクールバスで通うことになり、小学校の跡地活用については現在、日光市シルバーセンターが置かれている。

  • 明治7年(1874) 鉢石学舎第3分校として民家を借用して開設する。
  • 明治9年(1876) 現在地に校舎を新築する。
  • 明治12年(1879) 暴風雨により校舎が倒壊する。
  • 明治17年(1884) 校舎が新築再建される。
  • 明治23年(1890) 町村制に伴い、七里尋常小学校所野分校となる。
  • 明治33年(1900) 独立校として日光町立所野尋常小学校となる。
  • 昭和16年(1941) 日光町所野国民学校となる。
  • 昭和22年(1947) 日光町立所野小学校と改称。
  • 昭和29年(1954) 日光市立所野小学校と改称。
  • 令和2年(2020) 日光市立日光小学校に統合され廃校となる。

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