大原尋常小学校 (旧藤原町の廃校02)

 大原尋常小学校は明治7年(1874、明治11年説もあり)大原村折口の稲荷神社境内を利用して創設された。「藤原村史」を見ると稲荷神社は「字折口の畑に在り」、「境内93坪」、「明治40年(1907)8月大原神社に合祀、廃社となる」とある。
 まずはこの場所を探してみよう。現代では「字名」というのを知らない人が多いように、やはり大原も例外ではない。大原地域を歩いて「折口という字名はどこですか」と尋ねてもヒントは得られず、結局日光市役所の藤原庁舎で尋ねてみたが、「折口」という字名がどのあたりなのか、判然するまで2日を要した。さて、折口は会津西街道のツルハドラッグ日光鬼怒川店の北側の畑と東武鉄道の線路のあたりを指すということがわかった。

大原村字折口
大正元年測図の藤原村字折口 「電子地形図25000(国土地理院)を加工して作成」  

折口稲荷神社での開校

結果的には「折口に住んでいる方々」でさえも「折口なんて聞いたことがない」というくらい、「字名」というものは我々の生活から遠く離れているものなのだろう。この辺りにはもともと民家も少ないが、明治の終わり頃に廃社となった稲荷神社の場所を知っている方はもちろん見つからず、諦めていた。

 その後、全く違う要件で藤原中学校のそばにお住まいの方にお話を伺っていたときに、「神社の土地」という名称が出てきた。何でも、「なぜその土地が神社の土地と言われるのかは誰も知らないが、年に一回、自治会が交代で草刈りをしている」ということである。場所を案内していただくと、そこはまさに「大原村字折口」であった。草茫々の空き地はたしかに坪数は90坪程度である。折口という小さな字の中に複数の神社が置かれていたとは考えにくいので、この場所が大原尋常小学校の置かれた折口稲荷神社である可能性は非常に高いのではないか。

神社の土地
大原村字折口(日光市大原)の「神社の土地」

 ちなみに明治40年に折口稲荷神社は大原神社に合祀されたが、大原神社を管理されている方に話を伺うと、「大原神社内にはいわれが不明な稲荷社が一つある」ということだ。今となってはこの稲荷社の由来をたどることは難しいが、これが折口にあった稲荷神社の可能性も高いのではないか。
 次の図は大正元年と現在の地図の比較である。①は旧名主宅である大島家の経宗稲荷大明神、②は大原神社、③が「神社の土地」である。

大原村

 現代に伝わっていない小さな史実はたくさんあるが、現代に生きる我々は発信する手段がたくさんある。地元の細かな出来事、言い伝えでも、後世に残していきたいと改めて感じる。


下ノ原への移転

 さて、折口稲荷神社での開校から翌年の明治8年(1875)7月3日、大原小学校は大原村、高徳村、小佐越村、柄倉村の4村連合で大原村字下ノ原4番地に校舎を新築し移転、同時に藤原村の藤原小学校を第一分校とし、明治9年(1876)には高原村の高原小学校を第二分校とした。

 ちなみに私は東武鬼怒川線の「小佐越駅」の周辺を小佐越というのだと思っていたが、小佐越は実は川の反対側にある。鬼怒川を挟んで左岸(小佐越駅、下原小学校側)に大原村と高徳村、西の右岸(日光江戸村側)に小佐越村と柄倉村があり、小佐越、柄倉の生徒は現在の「萬年橋」あたりに架橋されていたと思われる吊り橋「小佐越橋」を使って通学していた。

大正元年測図の大原、高徳、小佐越、柄倉周辺地図(電子地形図25000(国土地理院)を加工して作成)

 大原小学校は最終的には現在の「下原小学校」の前身となるわけだが、校地は現在の場所とは少し違う。「図4」の地図は昭和4年(1929)発行の地図と現在の比較である。大正元年(1912)発行の地図にも「文」の文字は見られるが不鮮明なので、昭和4年図を拝借した。

 ◯印が現在の下原小学校の場所で、□で囲った場所が「文」の文字だが、□の場所には現在は市営住宅や下原保育園跡があり(住所は鬼怒川温泉大原1)、下原小学校(同・鬼怒川温泉大原2)に接している。校地は何度か拡幅された記録があるので、現在は日光市が所有するこの「大原1」の土地が大原小学校の学校敷地跡だった可能性も捨てきれない。

下原小学校
昭和4年測図の大原村の「文」の文字(電子地形図25000(国土地理院)を加工して作成)

 この場所には現在は市営住宅や下原保育園跡があり(住所は鬼怒川温泉大原1)、下原小学校(同・鬼怒川温泉大原2)に接している。校地は何度か拡幅された記録があるので、現在は日光市が所有するこの「大原1」の土地が大原小学校の学校敷地跡だった可能性も捨てきれない。

 

 さて、大原小学校は前期の通り本校であり、藤原小学校(藤原村)、高原小学校(高原村)を分校としていたが、明治20年(1887)には藤原小学校の分校となり(藤原尋常小学校大原分教室)、明治28年(1895)には分離独立して大原尋常小学校と改称した。  図5は明治34年(1901)、生徒数が82名と記録されている頃の校舎見取り図である。

大原尋常小学校見取図
大原尋常小学校見取図

小佐越村の仮校

 明治35年(1902)9月には、鬼怒川に架かっていた吊り橋「小佐越橋」が足尾台風の暴風雨のために全壊し、小佐越、柄倉の生徒は通学することが不可能になったため、やむを得ず小佐越村に仮校を設け授業を行うことになった。この仮校は約8年間も存続したが、明治43年(1910)4月、小佐越吊り橋が復旧し、生徒は元通り大原尋常小学校に通学した。生徒によっては入学から卒業まで仮校だったということになる。

 小佐越村にあった仮校の場所は小佐越村の名主も務めた旧家、北山家と伝わる(図6)。こちらの先祖は作新学院の前身である私立下野中学校に教員として勤めていたが退職し実家に戻り、小佐越の仮校で教師になったという話を伝え聞いているという。今も当時のままの建物は間口が10間もある非常に広い大きな家で、今は塞がれているが扉の横に通用口(エアコン室外機がある場所)があり、そこから子どもたちが教室となった奥座敷に出入りしたということだ。「写真を撮るならきれいにするから待ってて」ということで玄関を片付けて頂いた。ありがとうございました。


鉱山の隆盛

 開校から間もない明治18年(1885)に33名と記録されている生徒数は明治末期から大正にかけての鉱山の隆盛もあって300名を超え、その間に校地、校庭は何度か拡張と増改築を行った。当時、学校周辺の鉱山は木戸ヶ沢鉱山(小佐越)、南沢鉱山(大原)、豊徳鉱山、高田金山、遠藤鉱山(高徳)があり、大原には栗山村川俣の西澤金山を本拠とする大原製錬所(現在の東武ワールドスクウェアの場所)があった。特に小佐越の木戸ヶ沢鉱山の発見は江戸時代に遡り、最盛期の大正6年(1917)には540トンもの銅の産出量を誇る大きな鉱山であったが、昭和50年(1975)に操業停止、長い歴史に終止符をうち撤去された。関係施設があった場所には昭和61年(1986)、日光江戸村が建てられた。


高等科設置

 さて、このように大原尋常小学校を始めとした藤原地域の各小学校の生徒数は徐々に増えてきたが高等科は未だ設置されず、子どもたちが高等小学校で学ぶには豊岡や船生の尋常高等小学校に通学しなければならなかった。藤原地域の念願の高等科設置は大正10年(1921)になる。

 ここからが少しややこしい。

 大正10年(1921)3月、大原尋常小学校は高等科の設置認可を受け、校名を「大原尋常高等小学校」とし、直後に「藤原尋常高等小学校」と改め、既存の藤原、滝、高原の各小学校を分校とした。

 そして2年後の大正12年(1923)、藤原尋常高等小学校の校舎の一部を藤原村の中心部となる大字大原790番地に移築増築した。図7左は昭和4年測図の地図だが、この「文」は藤原中学校ではなく、藤原尋常小学校の印である。隣には藤原村役場があり、それは現在の町営プールの辺りだと言われている。

昭和4年測図の大原の様子。矢印の場所に大原駅、役場、学校の記号が見られる。(電子地形図25000(国土地理院)を加工して作成)

 そしてそれまで「大原尋常小学校」のあった下ノ原の校舎を使用し新たに「小佐越高徳分教場」を設置した。この分教場は昭和23年(1948)、分離独立し「下原小学校」となる。

 新しい藤原尋常高等小学校は、藤原、滝、小佐越高徳の各分教場の尋常科5年生もしくは6年生(年度によって違いがある)と、高等科1、2年生を収容した学校で、今で言う新制の中学校のような役割を持っていたと思われる。しかし前記の通り高等科が設置された大正10年から校舎を新地移転した12年までの二年間は藤原尋常高等小学校は下ノ原にあったため、滝や藤原の高学年の生徒は下ノ原まで通わざるを得ず、登下校に非常に難儀したことが伝わっている(鬼怒川小学校三十周年記念誌)。当時すでに下野軌道は操業を開始していたが、汽車で通学するなんてことは夢にも思わない時代だったのだ。

この大正12年(1923)の段階で整理すると藤原地区の学校は以下のようになる。

  • 藤原尋常高等小学校(本校、大字大原)
  • 藤原分教場(大字藤原)
  • 滝分教場(大字滝)
  • 小佐越高徳分教場(下ノ原、大原尋常小学校があった場所)
  • 高原分教場(大字高原)

  • 明治7年5月 大原村折口の稲荷神社に創設。「大原小学校」と称する。
  • 明治8年7月 大原村、高徳村、小佐越村、柄倉村の4村が連合して大原村下ノ原に校舎を新築して移転。藤原、高原小学校をそれぞれ第一分校、第二分校とする。
  • 明治13年 教育令改正により分校がそれぞれ独立。大原小学校、藤原小学校、高原小学校となる。
  • 明治20年4月1日 小学校令施行。藤原小学校の分校となり、「藤原尋常小学校大原分教室」と改称。
  • 明治25年7月21日 「藤原尋常小学校大原分校」と改称。
  • 明治28年11月26日 独立し、「大原尋常小学校」と改称。
  • 大正10年3月29日 高等科の設置認可。「大原尋常高等学校」、さらに「藤原尋常高等小学校」と改称。
  • 大正12年11月22日 大原790番地に校舎の一部を移転し増築、落成式を行う。下ノ原の旧校地は小佐越高徳分教場とした。
  • 昭和16年4月1日 学制改革により「藤原町国民学校」と改称。
  • 昭和22年4月1日 戦後の学制改革により同所に「藤原町立藤原中学校」が創設された。

参考文献

「藤原町郷土誌 地誌編」
「藤原町郷土誌 歴史編」
「藤原町史」
「鬼怒川小学校独立三十周年記念誌」
「いまいち市史」 今市市史編さん委員会
「日光市旧町村郷土史」 日光市歴史民俗資料館

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