今市の廃校6 今市市立瀬尾小学校

今市市立瀬尾小学校

住所:日光市瀬尾1521

 瀬尾小学校は明治7年(1874)、今市村の時習舎の第五番瀬尾分校とし、瀬尾の明静寺の敷地内を借用して開校した。教員は僧侶の村瀬彗淳が担当した。当時の明静寺は現在より北西の入坪にあり、現在も当時の門の跡を見ることができる(下図、写真参照)。

 明治13年(1880)には時習舎より独立し、瀬尾小学校と称した。その後は学生が増加し校舎が手狭になったため、明治16年(1883)、当時の瀬尾村の中央あたりに校舎を新築する計画が持ち上がり、同年11月23日に現在の県道栗山今市線の越路山原に新築移転した。当地は昔からしても辺鄙な場所であったが、少し北側の高百からも通う学生がいたということなので、瀬尾村の人口が多いところではなく、児童が通いやすいように瀬尾村の中心点に設置したということなのだろう。

 しかし、瀬尾村は当時資力に欠け、独立校としての存続が難しくなったため明治19年(1886)に七里小学校に合併し、分教室となった。だが御存知の通り、瀬尾と七里は大谷川を隔て、その距離は決して近いとは言い難い。圧倒的に近い今市や小百の学校の分教室とならなかったのは何か理由があるのだろう。

 その後明治22年(1889)には市町村制実施とともに瀬尾村は今市町に編入となり、従って学校も今市尋常小学校の分教室となったが、明治25年(1892)には瀬尾尋常小学校として独立した。

 明治31年(1898)に裁縫専修科が設置されたが、4年後の明治35年(1902)には廃止が決定し、卒業していないもののために翌年まで授業が継続された。
 明治41年(1908)には尋常小学校の修業年数が6カ年に延長されたが、瀬尾小学校は収容人数の都合により在学年を4年生までとし、5年生からは今市に通学した。2年後の明治43年(1910)には校舎を改築し、6学年までを収容できるようになった。

 昭和33年(1958)、廃校となる。瀬尾小学校と、今市小学校・大桑小学校の一部を合併して「今市小学校分校」が作られ、この学校は翌年に「今市第二小学校」と名称を変えた。

 瀬尾小学校の校庭にあった二宮金次郎像は今市第二小学校の校庭に移され現存するということだが、「復刻いまいち史談 第3巻」に掲載された手塚雅身氏の考察「瀬尾小学校の少年二宮金次郎像」を拝読すると、瀬尾小学校当時の銅像は戦時中に金属として供出されたため、今二小の現在のものとは同一ではないのかもしれないと思える。
 像の台座の銘板には「報徳」の文字と「酒井忠正」の名がある。瀬尾小学校と今市第二小学校の二宮金次郎像で、同一なのはおそらくこの銘板のみである。
 酒井の氏名の上部に何やら字が書いてあったところが削り取られている。酒井忠正(明治26年(1893) – 昭和46年(1971))とは政治家・華族である。貴族院の議員として農林大臣も努めた酒井は伯爵の称号を持っていたが、昭和22年(1947)の華族令廃止で爵位を失った。これは想像であるが、件の銘板は最初に瀬尾小学校に二宮金次郎像が作られたときの昭和10年(1935)のものであるので、後年になって「伯爵」の文字を削ったものではないかと考える。

 瀬尾小学校の校地跡は以前はそれを示す標識や礎石があったが、現在は木々も太く育ち草が生い茂り標識は朽ち果て、その名残はわかりにくい。今でも上下段に分かれた校地は「人からそう言われれば」そう見える程度には残っている。上段に校舎、下段に校庭があったということで、当時の写真も拝見したが、この写真と自分が今立っている場所がとても同じとは思えないほど、校地跡は自然に返っている。古井戸や配管の穴があるかもしれないと聞いた上、草は所によっては腰丈まで伸びているので、街っ子の私が敷地跡に一人で入るのは極めて困難である。

明治時代の地図には、現在と違う場所に寺院の印がある。これが明静寺である。
  • 明治7年(1874) 瀬尾村の明静寺を仮学校として開校。今市村時習舎(今市小学校の前身)第五番瀬尾分校とした。
  • 明治13年(1880) 瀬尾小学校として独立。
  • 明治19年(1886) 独立存続が難しく、七里小学校に合併し、七里分教室となる。
  • 明治22年(1889) 町村制施行により瀬尾村は今市町に編入され、これにより今市学校分教室となる。
  • 明治25年(1892) 独立して瀬尾尋常小学校となる。
  • 明治31年(1898) 裁縫専修科設置。
  • 明治36年(1903) 裁縫専修科廃止。
  • 昭和10年(1935) 二宮尊徳八十年祭を記念して二宮尊徳銅像を建設。これが現在今市第二小学校に残る銅像と言われている。
  • 昭和16年(1941) 今市町瀬尾国民学校と改称。
  • 昭和22年(1947) 今市町立瀬尾小学校と改称。
  • 昭和25年(1950) 豊岡村、落合村を編入し今市市になる。これにより今市市立瀬尾小学校となる。
  • 昭和33年(1958) 廃校。
瀬尾小学校があった場所。一段高いところに校舎があった。
入坪の明静寺跡。明治初期に時習舎瀬尾分校とした。今市第二小学校に移された(と言われる)瀬尾小の二宮金次郎蔵。
二宮金次郎の台座にある「酒井忠正」による「報徳」の揮毫

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