今回は平成22年(2010)に廃校となった日光市立川治小中学校について調べてみた。
まず始めに、今回の川治小中学校について調べるために、川治在住の郷土史研究家であられる大塚健一郎氏に極めて多大なご協力を頂いた。今回の僕の発表は、大塚氏が記した詳細な資料の劣化版コピーのようなものである。
大塚氏には心から感謝を申し上げます。ありがとうございました。
高原学校
川治小中学校の歴史は明治7年(1874)に遡る。高原村、川治村は連合して藤原村字栃久保(当時は栃窪)の民家を間借りして開校し、「高原学校」と称した。
はて、川治村はなんとなくわかる気がするが、高原村とはいったいどこなのだろうか。
なぜ高原と川治の学校を藤原村に作ったのだろうか。まずここから解明していこう。
川治村、高原村、藤原村
川治村と川治温泉
川治村は江戸時代初期より日光神領に属し、「川路」とも書かれ、記録では戸数13戸の小さな小さな村であった。下図は川治の草分けと言われる13戸があったあたりの地図である。
大きな◯は「草分け十二軒」と言われた住宅の場所、小さな◯は商人であった高橋家が開いた「近江屋(現・リブマックスリゾート川治)」の場所である。
温泉は今から約300年前の享保8年(1722)、男鹿川上流にあった五十里湖(現在の五十里湖とは異なる自然湖)の決壊後に発見されたと伝わる。周辺地域の最大の天災と言っても過言ではないであろう1,200名の死者を出した「五十里洪水」は、人馬家屋を押し流し田畑を壊滅させ、一変してしまった村形と荒涼とした河跡に住民は気力を失っていた。
そんな時、岸壁が崩れて完全に流れを変えた男鹿川にいかだを出した筏士が、洗い削られた岩角に湯気を発見した。これが温泉地として発展していく川治温泉の始まりとなった。
高原新田宿
高原新田宿は旧・会津西街道の高原峠に置かれた宿駅で、現在の日塩もみじラインの途中の鶏頂開拓の辺りに存在し、高原村とも、高原新田村とも呼ばれていた。
村の成り立ちは江戸時代の初期の承応2年(1653)、下総(現在の千葉県北部と茨城県南西部)から来た「香取家」が街道を往来する旅人相手に茶店を開いたのが始まりといわれる。
その後の万治2年(1659)、現在の福島県と栃木県の県境付近で発生した大地震によって湯元塩原村(現・須塩原市湯本塩原)の湯口が塞がり、生活の糧を失った村民6戸が街道沿いに移住して高原村が形成された。
しかし、会津西街道のうちの藤原ー五十里の高原越えの道は会津西街道の難所の一つとして数えられ、よじ登るような急峻の箇所が複数あり、冬は積雪のためにほとんど使用不可能になった。そこで幕府は文久3年(1863)、五十里村-藤原村間の高原峠(距離24km)を通らずに、現在の川治温泉を経由する「栃久保新道(距離16km)」を開削した。
栃久保新道の開通によって従来の高原峠を通る往還は廃道となり、高原新田宿は人や物資の往来が途絶えたため、住民は生計の糧を失った。
幕府は高原新田の住民の生活を憂慮し、移転費用として100両を与えた。「高原八軒」と言われる宿の住民は200年余の旧地を捨て山を下りる決断をし、当時官有地だった「藤原村字栃久保河原」の下付を願い、そこに移転することにした。新たな土地は男鹿川沿いの河原で、栃久保新道はこの「河原」を通っていた。現在は柏屋や川治一柳閣などの大きな温泉ホテルが並ぶ場所である。
翌年の元治元年(1864)3月20日には移転を完了し、住所を「高原村字河原」と改称した。ここに高原村の飛び地が出来たことになる。
このように川治温泉の周辺は江戸時代の栃久保新道の開削や昭和31年(1956)の五十里ダムの竣工などにより、何度か道が付け替えられている。下図は高原八軒が移転した当時の「川治村・高原村・藤原村」の境界を現在の地図上におおよそで区分けしたものである。
川治温泉は鬼怒川と男鹿川の接する周辺を指すが、明治7年(1874)の高原小学校開校当時、男鹿川の右岸(西)に川治村、左岸(東)に高原村があり、川治保育園があった細い道から東側は藤原村であったということだ。山々と男鹿川、鬼怒川に囲まれたこのほんの数百メートルの間に、ぎっしりと村の境界があったことがわかる。
1.八木澤平治宅での開校
さて、川治温泉周辺の大まかな移り変わりをご紹介したところで、本題の川治小学校の歴史を調べてみよう。
明治5年(1872)の「学制」発布から遅れること2年の明治7年(1874)5月、高原村、川治村は連合して藤原村字栃久保の八木澤平治宅を間借りして「高原学校」を開校(就学児童18名)した。当時の川治村、高原村は戊辰戦争の戦火による疲弊から復興しておらず、唯一焼失を免れた八木澤宅を使用せざるを得なかったためである。八木澤平治は嘉永2年生まれ、当時25歳であった。
昭和5年の藤原村家屋調査によると、八木澤家は敷地面積約170坪、建坪63坪であり、民家としては大きな屋敷であった。
川治のコミュニティハウス(公民館?)の北側に広い土地があり、一軒の家が立つ。これが一番初めに高原小学校が置かれた八木澤平治氏の居宅があった場所である。現在は八木澤氏とは全く関係ない方がお住まいである。
2.移転、高原村字河原(明治12年)
八木澤家を5年間校舎として使用した後の明治12年(1879)、高原村字河原(高原40番地)に校舎を新築して移転した。校舎は村民の浄財により建築され、一戸につき金20銭の負担があった。村民はこの金銭の工面に大変苦労しており、土地を抵当にして借り入れした証文が数多く残っている。これは村に学校を作るという当時の人々の強い思いの証であると言えるだろう。
この場所は現在の登隆館の前方の駐車場の場所と伝わる。
3.移転、大字川治22番の共同養蚕場(明治31年)
その後の高原学校は児童が増え続け校舎が手狭になったために、明治31年(1898)に大字川治22番にあった共同養蚕場に移転した。この場所は新男鹿橋を渡って突き当りの高台の場所である。
4.移転、大字高原62番地(明治41年)
養蚕場を改造した校舎での授業を10年続けた後、明治41年(1908)6月に高原字河原にあった子安神社の場所に4代目となる校舎を新築移転した。この場所は現在「湯けむりの里 柏屋」の敷地内となっている。
下の冊子は川治小学校の記念文集である「渓流」の24号で、川治小学校創立100周年と川治中学校独立20周年を記念して編集されたものである。表紙の藁葺き屋根の建物が校舎の想像図ということだ。
建坪35坪、教室は1つで20坪、廊下を挟んで教員住宅が併設され、校庭には運動器具として鉄棒が1基置かれていた。
教師は観月知観1人、児童数は20名程度であった。昼食は小網方面から来る子ども達は弁当を持参したが、多くの子ども達は昼食時は家に戻った。校舎の周りは雑木林で、あけびやエビヅル(やまぶどうの一種)が一面に生え茂っていたという。のどかな学校生活が想像できる。
今も柏屋ホテルの正面玄関の前にあるという巨大なもみの木は当時のものであり、当時学校の南側にあった子安神社の大石も現存するということだが、これは判別できなかった。子安神社は現在は鶏頂山神社里宮の隣に合祀されている。
大正10年(1921)頃、今までの高原尋常小学校の呼称を改め藤原尋常小学校の分教場とする話が出た。川治住民の猛反対運動が起こり話はこじれたが、結果は「高等科を設置する分教場」ということで決着した。
5.移転、大字栃久保(元・川治保育園の場所)(大正12年)
大正時代になると、下野軌道株式会社が今市ー藤原間に鉄道を通し、さらに道路の改修等により川治温泉にも東京方面からの多くの旅客が訪れるようになった。旅館や商店の増加、改築に伴い川治温泉も人口が増え、大正11年(1922)には高等科が併置されるということで、高原学校も児童が急増していった。
手狭になった校舎を増築しようとしたが、ここ高原村字河原は岩だらけの地であったため断念し、新たに校地を求めることになった。
新校舎は現在で言うところの川治保育園があった場所が選定され、1軒ごとに16円50銭の寄付金と藤原村の予算を合わせ、700余坪を土地所有者の八木澤初太郎より購入し校地として整備した。八木澤初太郎は最初に高原学校を作った時の八木澤平治の長男であり、当時は平治氏も隠居として健在であられたという。高原学校創設から数えて40数年後、学校は幾度かの移転を繰り返した後、栃久保に戻ってきたことになる。
校地の整備は大正11年(1922)に着手され、翌大正12年(1923)に完成した。
上記の写真の石垣と真ん中の通路は当時のままである。
当初建坪70坪の平屋建て校舎は増改築4回を重ね、昭和20年(1945)には青年団が青年会館として使用していた建物が町に寄付され移築された。
川治小学校に改称。火災、全焼(昭和22年)
昭和22年、戦後の学制改革により創立以来の校名であった「高原(小学校、分教場)」を、藤原町立「川治」小学校と改称した。校名は「藤原町立高原小学校」でも何ら問題なかったのだが、この頃に川治近江屋の湯守・高橋秀治が藤原町長に就任したため、「川治温泉」の名称を広く知らせるための改称であったとも考えられる(教育「學校」大塚健一郎著より)。
同時に「藤原町立藤原中学校川治分校」を併設した。
だがこの校舎は新築から間もない昭和23年(1948)4月1日の午前、高原地区からの出火で類焼し、ほぼ全焼してしまった。この時に川治小学校は学校資料の一切を焼失している。
児童たちは柏屋ホテル(小学1.2年生)、一柳閣(小学3.4年生)、川治温泉ホテル(小学5.6年生)、偕楽荘(中学生)に分散して授業を受けることになった。川治温泉に大きなホテル旅館があったことが幸いしたが、しかし風紀の面では好ましい状態ではなかった。
そこで前PTA会長で町長の高橋秀治、PTA会長八木澤和夫は占領軍司令部に日参し、新校舎の建築許可を訴え、町議会でも異例の速さで校舎新築が議決された。これは高橋が町長であったことが大きな原要因であったことは想像に難くない。
同年に工事は着工されたが、12月の木造2階建て校舎の完成を迎える前に高橋町長は病に倒れ、この世を去った。
鶏頂開拓
太平洋戦争の終結後、旧・高原新田に引揚者によって「鶏頂開拓」が拓かれた。「高原新田宿の人たちが200年も住んだ場所に自分たちが住めないはずはない」と、当時の写真を見ると失礼ながら「よく冬を越せたな」というのが第一感想になる「ほったて小屋」のような家を建てて入植した。
鶏頂開拓の子どもたちは当時の山道を歩いて川治小学校まで通った。片道1時間、川治地域の鶏頂山神社から登る山道は現在はほぼヤブである。当時は今よりは草木も茂っていなかったとはいえ勾配のきつさは変わらず、その行程は登山といっても差し支えない。現在60歳くらいの方からはようやくバスが通り、鶏頂開拓から日塩道路をバスで降り、国道との合流地点でバスを待ち乗り換えて通うようになった。それでも登校時間は約1時間と変わらなかった。
6.移転、希望が丘(沖の平)
昭和25年(1950)10月18日、太平洋戦争のために中断されていた五十里ダム工事の起工式が行われた。川治にはダム建設のための膨大な量の物資だけでなく、建設省の役人や鹿島建設の工事従事者が一家を伴い引っ越してきた。その子どもたちが川治小中学校に転入したため、新しい校舎は一気に手狭となった。昭和22年(1947)の2階建て校舎新築時、川治小中学校を含めた生徒数は233名だったのに対し、工事起工後の昭和26年(1948)には生徒数は315名に跳ね上がりっている。
しかし藤原町はほんの2~3年前に川治小学校の新校舎建築に支出したばかりであり、町としても新たに移転候補先を見つけることや予算の割当に消極的であった。
この頃の児童生徒たちは椅子や机が不足しており、卓球台までもが机として利用されたという。昭和29年(1954)、校舎移転地土地交渉委員会が設置され、ようやく小網地区の沖の平が学校用地として選定された。
昭和33年(1958)2月23日、沖の平の測量が行われ、同年6月20日より陸上自衛隊宇都宮駐屯地の第104建設大隊によって工事が開始された。校地予定地は山の斜面であったため整地作業は切土、盛土が行われた。
移転はまず中学校から行われた。昭和31年(1956)4月1日に藤原中学校から独立し、「藤原町立川治中学校」となり、6月18日には新校舎が落成、移転した。
小学校の校舎はまだ完成していなかったため、7月の夏休みを待って栃久保校舎を離れ、小学1.2年生は川治公会堂、3~6年生は中学校の新校舎に分散して授業を行った。栃久保校舎は8月、解体された。
翌年昭和32年(1957)、4月の新学期にも小学校校舎完成が間に合わず、ようやく5月2日に5.6年生が新校舎へ、5月18日に残りのすべての学年が新校舎に移ってすべてが完了した。小学校児童総数294名、中学校生徒総数120名であった。
しかしこの頃、整備されていた通学路は小網側のみで、川治側の通学路は危険な山道であった。
そこで昭和36年(1961)6月、川治側の通学路が再び陸上自衛隊宇都宮駐屯地の第104建設大隊によって施工された。この道はいわゆる栃久保新道の旧道で、毒水沢の湧き水などによって地質が軟弱であったため、路肩の補強と並行しながら工事が行われ、昭和38年(1963)11月25日に竣工となった。
その後の川治小学校、中学校は昭和37、38年度(1962~1963)に児童319名、生徒153名と川治小中学校の歴史を通じて最大を記録している。それに従い、屋内運動場やプールが整備されるなど児童生徒の教育環境が整っていった。時には夜中の校庭に3度も水撒きをしてスケートリンクを作ったり、岩風呂清掃や川治太鼓の習得など川治ならではの行事もたくさんあったと言う。
平成10年(1998)になると三ツ岩トンネルが開通し、それによって教職員は通勤距離が300mほど短くなったため、通勤届の距離を300mほど短く訂正したなど、暮らしやすくなっていく街の様子も伝えられている。
しかし、昭和の終わりから平成にかけて児童数が100名を下回ると、その後は年々減少の一途を辿っていった。地域に住民にとって慣れ親しんだ学校が閉校となることは断腸の思いであっただろうが、それでも子どもたち将来を考えたとき、より多くの人数で切磋琢磨すること学んだほうが最善の方法であることが話し合いによって決定した。
平成22年(2010)3月をもって川治小学校・中学校はそれぞれ鬼怒川小学校・藤原中学校に統合された。最後の生徒は小学校が4名(6年生のみ)、中学校が3名(3年生のみ)であった。
現在、校地の跡地は整備され、希望が丘公園として一般に開放されている。昭和3年(1928)に昭和天皇即位記念として栃久保に置かれた石の門柱を始め、今もそこかしこに川治小中学校の名残を留め、春には桜が咲き誇る。
川治小学校の沿革
- 明治7年5月1日 高原村、川治村の2村が連合して藤原村字栃久保の八木澤平治宅で高原學校を開校
- 明治8年 大原小学校の第二分校となる
- 明治12年 高原村字川原に校舎を新築移転
- 明治19年 小学校令発布。藤原尋常小学校高原分教室と改称
- 明治25年 藤原尋常小学校高原分校と改称
- 明治28年 大原尋常小学校高原分校と改称
- 明治31年 川治下川原22番地の養蚕場を仮教室として移転
- 明治33年 高原尋常小学校と改称
- 明治41年 高原字川原の子安神社の場所に校舎を新築移転
- 大正10年 藤原尋常小学校高原分教場と改称
- 大正11年 尋常科と高等科を併置。藤原村字栃久保に714坪を購入し校地とする。
- 昭和16年 藤原町国民学校高原分教場と改称
- 昭和19年 藤原町第二国民学校と改称
- 昭和20年 青年会館を移築し校舎とする
- 昭和22年 藤原町立川治小学校と改称。藤原中学校川治分校を併置。
- 昭和23年 川治の大火により校舎全焼。周辺旅館での分散授業を行う。
- 昭和23年 新校舎落成
- 昭和32年 校地を藤原町1190番地に移転
- 平成18年 日光市立川治小学校
- 平成22年 廃校。生徒数4名
川治中学校の沿革
- 昭和22年 藤原町立藤原中学校川治分校として大字藤原1223番地に開校
- 昭和23年 川治の大火により校舎全焼。偕楽荘を仮教室とする
- 昭和23年 新校舎落成。全所在地に復帰
- 昭和31年 藤原町立川治中学校として独立
- 平成18年 日光市立川治中学校となる
- 昭和22年 廃校。生徒数3名
参考資料
- 川治小学校史 教育「學校」(大塚健一郎)
- 藤原町史 通史編(藤原町史編さん委員会)
- 会津街道の歴史を歩く(佐藤権司)
- 川治小・中学校閉校記念誌「希望が丘」(日光市教育委員会)
- 渓流 No.6(栃木県塩谷郡藤原町立川治小学校・藤原中学校川治分校)
- 渓流 No.24 川治小学校創立100周年 川治中学校独立20周年記念誌(記念文集委員会)
今回、大塚健一郎氏には宝物のような史料を快く見せていただき、自作の史料の多くをいただくことができた。氏は会津西街道とその周辺の成り立ちを深く研究されており、その類の書籍には必ずと言ってもいいほど協力者としてお名前を拝見する。
この場を借りて、真っ昼間から何度も何度もお邪魔してご教授頂いたことを深くお詫びし、快く迎えてくださった大塚健一郎氏と奥様に深く深く感謝致します。ありがとうございました。
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