今市の廃校10 和正舎(小林小学校)の分校 (4完)

篠井村の財政と合併

 結びに、篠井村の大正から昭和時代を振り返り、当時の大人たちの「子どもたちの教育にかける思い」を書きたいと思う。

 過去の篠井村は決して豊かな村ではなかった。
 第一次世界大戦後(大正7年(1918))の一時的な好況の反動を受けて不況の波が押し寄せ始めた所に、農業恐慌や度重なる冷害のため、特産物を持たない田畑のみの純農村地帯であった篠井村の財政の窮乏はその極みに達した。大正の末期には、老朽化した障子張りの校舎は村の英断で改築されたが、多額の村債を背負って財政難に四苦八苦した。

 その頃の教師の給与は全て村費負担であったので、村の総予算の半分以上が教育費だった。当時の村の年間予算はおおむね4万5~6千円であったが、大正13年(1924)から昭和5年(1930)の6年間で累積滞納額が3万6千円となった。教師の給与は6ヶ月あまりも未払いとなり、役場の職員に至っては、10ヶ月以上にも及び給料が支払えなかった。財政破綻と言っても過言ではない。
 そして、篠井村は「貧弱町村」という汚名が着せられた。
 前途の不安が増す中、県が教員の給与を支払うなどの助成があり、一同はほっと胸をなでおろした。

 昭和20年(1945)、日本は終戦を迎え、まもなく教育制度の改革があり6・3制の学校教育法が発布された。
 そこで篠井村は新たに中学校を建てなければならなくなった。
 言うまでもなく、金はない。
 悩んだ挙げ句、これは村民に対して多額の寄付を求めざるを得なかった。もちろん賛成もあり、反対もあったが、村としては寄付の割当を押し切らざるを得なかった。
 そして新しい教育制度が始まった。
 多額の寄付や住民の労力奉仕を受け、完成した中学校が篠井村立北中学校(現・日光市立小林中学校)と南中学校(篠井村立篠井中学校→他校と合併して現・宇都宮市立晃陽中学校)の2校である。

 これらのことを辿っても、当時の教育環境は推して知るべしであるが、しかし篠井村は、明治時代から早い段階で高等小学校を併置し、船生などの周囲の村から通学する者もたくさんあった。
 村の規模と比較すると、こと教育に対し非常に理解のある村だったと言える。村民は長年、教育費の問題に悩まされ続けたが、耐え抜いたのだ。

 その後の昭和29年(1954)に行われる全国的な町村合併に向けて、篠井村も富谷村や大沢村などの周囲の村々と合併協議が行われた。しかし、周囲の村と純農村を設立しようとしたのだが、どこの村とも協議は不調に終わった。
 かつての財政難を抱えた「貧弱農村」と提携してくれる村は周囲に存在しなかったのだ。

 合併の期限が迫るにつれ、「篠井村の分割案」が出た。村民は驚き反対意見が多数を占めたが、それでも協議を重ねるうち、これが妥当な案だと住民の理解を得られた。
 そのようにして、明治22年(1889)に町村合併で生まれた篠井村は、その65年後の昭和29年(1954)に、宇都宮市と今市市に分割して合併されることになった。

 篠井村の村有林として「篠井村大字篠井字金山2078」(文字通り金山の跡である)があったが、これらは宇都宮市と今市市の両市に属することになる人口比率から算定し、46.2:53.8を基礎にして分割された。外債権、債務、現金等もこの比率に則って分割され、村の職員18人は本人の住所や希望を考慮して、宇都宮に10人、今市に8人と分かれた。
 また篠井村の役場は「篠井村大字篠井1602」に所在していたが、これは宇都宮市に編入する地に建っていたため、今市市大字塩野室76-1に移築して「今市市塩野室支所」とした。

 

 郵便局の反対側になるこの場所は今は空き地となっている。ここより南東方面には数えて3代目の建物となるきれいな塩野室支所(小林公民館)が建っている。

 小林小学校の松の木は全長20mを超える古樹である。昭和59年(1984)に現校舎が新築される際、「校庭の邪魔になる」ということでこの松は伐採されることになったという。
 しかし、周辺地域の住民から「思い出の多い松の木を切らないでほしい」という要望が多く上がり、松は今も校庭のかなりど真ん中に近いあたりで元気に遊ぶ子供たちを見守り続けている。

参考資料

  • 栃木県町村合併誌 第3巻(昭和30年(1955)宇都宮市)
  • 教育百年 (昭和48年(1973)今市市教育委員会)

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