今市の廃校10 和正舎(小林小学校)の分校 (3)

3つの分校

 続いて、明治期に和正舎が設置した3つの分校について調べた。

 明治17年(1884)、生徒数が増加してきたため教室が手狭になったため、和正舎は以下の分校を設置した。
 校名は明治18年(1885)に和正舎を改め「小林学校」となり、次いで明治20年(1887)3月には「小林尋常小学校」となっている。

1.下小林第一分舎

 下小林の第1分舎は、明治17年(1884)6月4日に開校した。通学児童は下小林、謡辻うどうつじ(現・宇都宮市)の1年生であった。
 明治21年12月4日、校舎の増改築が完了したため閉校となる。

 この場所は発見できなかった。

2.塩野室第二分舎

 塩野室第二分舎は明治17年(1884)6月2日に開校、通学児童は塩野室の1年生であった。
 明治21年(1888)12月4日、校舎の増改築が完了したため閉校となる。
 しかしその後の明治25年(1892)4月、校舎狭小になったため再度分校舎として借り入れられる。これは明治27年、校舎の増改築の終了に伴い廃却となった。

 塩野室分舎の正確な位置は定かではないため推測するしかないのだが、和正舎は明治13年(1880)の暴風雨で校舎を大破し、修繕の完了まで「塩野室村の安久都あくつ弥五三郎やごさぶろう」氏の居宅を借り入れたという記録がある(篠井北部郷土史)。
 現在、塩野室地区に安久都さんというお宅は1軒しかないが、お尋ねしたところ、江戸の頃、安久都さんの本家は塩野室村の重鎮であったそうで、今その本家の場所は空き地となっているとご案内していただいた。
 塩野室を東西に横切る主要道路「県道62号今市氏家線」に面した広い土地には今も隅に小さな社がある。安久都さんのご記憶では以前は角に大きな石柱があったそうだが今はなく、書かれていた内容までは覚えていないということだ。
 もしもこの場所が明治13年に仮校舎が置かれた「安久都弥五三郎」氏の居宅とするならば、その3~4年後の明治17年に第二分舎を置くのもここなのではないかと想像している。当時農村であった塩野室村内に、学校に利用できる大きな建物はそれほど無いのではないか。
 しかしこれは筆者の想像の域を出ない話だ。

安久都氏の居宅跡
安久都氏の本家があった場所。

3.沢又第三分舎

 沢又第三分舎は明治17年(1884)11月1日に開校、通学児童は沢又、嘉多蔵の1年生であった。
 沢又分舎は翌明治18年(1885)には廃校となっている。

 沢又分舎の跡は特定できた。
 何人かの沢又地区在住の方が教えてくれ、地図まで書いて頂いた。

沢又第三分舎の地図
下が「北」となる
Google マップ

 地図の場所の沢又第三分舎の跡は、今は雑木林になっている。
 たった一年だけ存在した分舎がどのような姿かたちであったのかを示す資料はみつからない。ただ、古老いわく、この前を通る細い道は以前は河内郡の郡道であったそうで、その長い直線道路では競走馬が走ったそうだ。

沢又第三分舎の跡と直線道路

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