今市の廃校1 今市女子高等学校

 明治5年に発布された学制により、今市は翌明治6年には教育の大切さを尊ぶ多くの篤志家が中心となって各地で学校が開かれた。開校当初はどの村々も学校設営・運営の資金が乏しく、寺院や廃寺、住宅を借用して学校を開校せざるを得なかったことが記録されている。その中でも今市宿の時習舎と小代村の知新舎は、多くの分校をもつ学校であった。

 今回はこの中で、旧今市市域で現近代に廃校となった学校と私塾について調べたことを記載する。

今市女子高等学校

 今市女子高等学校は、元々は明治時代、今市尋常高等小学校を卒業した女子に対する裁縫の教授を目的として、「裁縫専修科」として設立された。校舎は今市町住吉町の当時の今市尋常高等小学校の敷地内(現・かねます商事と渡辺精肉店の間辺り)に設置された。その後生徒数の増減や校舎の増改築に伴い、如来寺の一角や相生町の藤井乾物店の二階を借り上げての間借り授業など移動も多かった。

 呉服の仕立ての賃金を貯蓄してオルガンや華道、茶道具を購入したり、労働賃金を集めて割烹室を作り、バザーの際に食堂を開いてその利益でミシンを購入するなどした。生徒数は昭和初期には約200名を数えた。太平洋戦争中には通年動員に参加、日光精銅所に勤務したり、宇都宮護国神社までの夜行軍なども行った。戦中、戦後には雨天の日以外には曜日に関係なく開墾に従事し、麦の作付けなども行った。

 その後念願の県立移管にあたり、独立校か今市高との統合かで世論もまちまちであったが、男女共学の新制度の方針や、経済的な面から昭和24年(1949)、今市高校への統合となった。

大正元年測図の今市地図との比較。矢印が指す白い校地の上に「文」の文字が見える。
  • 明治25年(1892) 「裁縫補修科」(*1)(*3)設立。今市町住吉町に当時あった「今市尋常高等小学校」敷地内に併設された。
  • 明治26年(1893) 「今市裁縫伝習所」と改称される。
  • 明治28年(1895) 「裁縫専修科」と改称、今市尋常高等小学校の付属となる。
  • (1901) 「今市町立今市裁縫専修学校」と改称。授業は毎日6時間通しで裁縫を行い、週に一時間ずつ修身、国語、音楽の授業を行った。
  • 明治35年(1902) 今市尋常高等小学校が新しく落成した琵琶ヶ窪(現・今市小学校)に移転したため、住吉町の旧校舎は「今市第二尋常高等小学校」と称し女子部となった。今市裁縫専修学校は同じくその場所に付属した。当時生徒数は極めて少なく、記録では38名とある。
  • 明治45年(1912) 今市第二尋常高等小学校及び今市裁縫専修学校を第一尋常高等小学校の敷地に移転(*4)。第二小学校の校舎の一部を移築した。
  • 大正2年(1913) 琵琶ヶ窪の校舎の正面から右を第一、左を第二とした。翌年、両校は合併し、今市尋常高等小学校とした。裁縫専修校の教授陣は裁縫専任訓導の豊田アサ(後に私塾を開校)と、その他の修身、国語、算術、唱歌は担当教師が小学校から教えに来た。
  • 大正14年(1925) 「今市町立補習実践女学校」と改称。本科の上に研究科を設置した。生徒数は100名を超えた。同年、「栃木県立今市中学校(現・今市高校)」が創立し、仮校舎を今市尋常高等小学校内に置いたので、翌年までの約1年半、相生町の藤井乾物店(*2)の2階を間借りして授業を行う。
  • 昭和2年(1927) 文部大臣の認可を得て「町立今市実業女学校」と改称。
  • 昭和14年(1939) 「町立今市高等実業女学校」と改称。
  • 昭和21年(1946) 「町立今市高等女学校」と改称。
  • 昭和23年(1948) 6-3-3-4による新学制改革により高等学校に昇格。「町立今市女子高等学校」と改称。ちなみにこの時、栃木県立今市中学校も栃木県立今市高校に昇格した。
  • 昭和24年(1949) 栃木県立今市高等学校と統合。琵琶ケ窪の校舎は今市町へ返還し、備品は県に移管した。
(*1)今は民家が並ぶこの一帯は、今市尋常小学校の校地となっていた。ここに裁縫専修科が設置された。
(*2)仮校舎が置かれた相生町の藤井乾物店の跡地。現在は森病院の駐車場となっている。
(*3)住吉町の校舎の見取り図
(*4)琵琶ケ窪に移転後の校舎見取り図。一番左に「今市裁縫専修学校」が設置された。
現在の今市小学校の、野球のバックネットあたりに設置されたと考えられる。

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