今市の廃校10 和正舎(小林小学校)の分校 (2)

和正舎の開校から

 今回は、明治6年(1873)に和正舎が開校された場所を調べてみよう。

小林小学校の沿革史を見てみると、「明治6年(1873)7月1日 小林村清水沢見宅を仮校舎として開校、「和正舎」という」とある。
 和正舎は新校舎が落成するまでの1年5ヶ月の間、ここで51名の子弟の教育を始める。机と椅子が10脚ずつしかなかった当時の教育環境は前回でお知らせしたとおりである。

 ではその場所はどこなのか? 「清水沢見」氏は何者なのか?
 小林地区に「清水」という姓は無いと言っても過言ではないらしい。
 この開校の場所がなかなか見つからない。しかしある日宇都宮市立図書館で篠井村関連の古い書籍を眺めていた時に、小林村の「瀧尾神社」の項にその名を見つけることができた。

清水沢見と清流寺と滝尾神社

 昭和6年(1931)に出版された手書きの「篠井村郷土史」がある。これは大正4年(1915)に書かれた「篠井村南部郷土史」を清書、加筆訂正したもののようである。
 ここの滝尾神社の解説には以下のようにある(読みにくい字は筆者が現代文に変換した)。

当社は、故は高尾神社と称せり。今を去ること400年前の大永2年(1522)3月、京都大仏師の福田香園に弥陀、馬頭、千手の三仏体を彫刻せしめ御神体として、宇都宮の能延寺の末寺、清流寺を建立して祭祀を行った。維新に際し、日光五社の内、二荒山の祭神大己貴命・味耜高彦根命・田心姫命を遷し同座して后神とす。

篠井村郷土史(昭和6年)

 ここに、「清流寺」という寺名が新たに見つかった。この清流寺について調べていたところ、平成5年(1993)に発表された「篠井村北部郷土史」の267頁、「寺子屋」の項に以下のようにあった。

清流寺(真言宗)
 字宮脇にあって宇都宮能延寺の下寺院である清流寺は、子弟の教育を実施していたが、明治初年にこの寺領地は当時の住職「清水澤見」氏の所有となり、寺院は同氏の住宅となって、ここに廃寺となる。
 当時の神社の規定により、従来からの瀧尾大権現を改めて、村社瀧尾神社と改称した際、清水氏は僧職を辞し、新たに神主に就職し、引き続き神社に奉仕した。
(筆者注:澤、瀧の字を当時の旧字体としてある)

篠井村北部郷土史

 ここにようやく「清水沢見」氏の名を見つけることができた。 
 話を総合すると、清流寺は、古くからあった小林村「滝尾大権現」の境内に建立された神宮寺であったが、明治の初期の廃仏毀釈により清流寺は廃寺となり、現在は滝尾神社のみが残っている、と理解できる。
 そして清水澤見氏は、そこで寺子屋を開いて子弟の教育を行っていた僧侶(→還俗げんぞくし、後に神官。神仏分離令では、神仏習合を禁止するため神社所属の僧侶の還俗を命じたため)であった。

 つまり、明治6年(1873)、和正舎が開かれた「清水沢見氏の居宅」とは、現在の滝尾神社の場所だったということだ。

小林の瀧尾神社

 その後の滝尾神社を追ってみよう。
 清流寺の廃寺によって、赤門や鐘楼などは滝尾神社の管轄に移された。明治17年(1884)、清水氏は経済難に陥ったため、所有していた元の寺地を売却し、ひと隅に小さな家を建ててここに居住し神官を続けた。その頃にはすでに「寺」の形跡は殆ど見られなかったという。
 沢見氏の死後、跡を継いだ照逸郎(しょういちろう?)氏も神官として祭祀を行っていたが、明治27年(1894)、退職して移住していった。
 現在の滝尾神社の祭祀は小林地区在住の和田氏が行っているが、お話を伺ったところ、「すでに古い話なので氏名等は定かではないが、明治の頃までは各集落ごとに神官がいたが、職を辞すにあたり、統合されていった」という内容のことを聞かせて頂いた。

小林滝尾神社

 小林の滝尾神社を訪ねてみる。
 約150年も前の清流寺の寺院、赤門や鐘楼の跡はもはや見付けることは叶わないが、境内には石仏等の寺院の名残を見ることができる。
 また、近所の古老に伺ったところ、昭和初期には下の写真の場所に教員住宅があり、教師が歩いて小林小学校まで通っていたという話を聞けた。ちなみに、現在小林滝尾神社の宮司を務められている和田氏の住宅にも、昔は学校の先生が住んで小学校まで通っていたということだ。クルマ社会になる以前は、教師はこのようにして出勤していたのだ。

小林小の教員住宅があったと言われるあたり
神仏習合の名残が残る

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