十石坂とは
今市に住んでいて、十石坂を知らない人はいないと思う。改めて説明すると、十石坂は例幣使街道の途中、日光市明神にある急坂である。
そして、多少なりとも郷土史好きな人は、おそらくこう言うだろう。
「日光東照宮の大造営のときに、筑前福岡藩主の黒田長政が大鳥居を寄贈するため、ここまで巨石を運んできたが、この急坂を越すのに難儀してたくさんの人夫に10石もの米を使ってしまったので、十石坂と名がついた。」
これは実は間違いである。しかしこの間違いは栃木県の公式サイトを始めとした様々なサイトにも堂々と記載されていることである。
間違いであるのだが、ざっとそのストーリーを振り返ろう。
黒田長政
黒田長政は前述のとおり、遠く九州の筑前、福岡藩の藩主である。長政の父は豊臣家の軍師として名を馳せたかの有名な「黒田官兵衛(孝高)」である。官兵衛と長政親子は織田信長、豊臣秀吉に仕え、とくに長政は秀吉から息子同然に育てられた。
しかし秀吉の死後、長政は家康の養女を娶ったことから、慶長5年(1600)9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍につき、大活躍を治めた。徳川家康はその恩賞として筑前国名島に52万3千余石の封を与え、長政は福岡藩を立藩し初代藩主となった。
その後の元和2年(1616)4月17日、家康は駿府城で亡くなる。
長政は徳川に手厚く遇されたとはいえ、いわゆる外様大名である上に豊臣方に浅からぬ縁もあったということもあり、元和3年(1617)の家忠による東照社(日光東照宮)の造営では、一層の忠誠心を見せなくてはと考えたと言われる。
そこで長政は翌年の元和4年(1618)、福岡県糸島市にある可也山(かやさん)から切り出した60t、15個の花崗岩の巨石を海路で江戸まで運び、江戸川・利根川・渡良瀬川を遡り、さらに「御用川」と呼ばれた思川を遡上して小山の乙女河岸まで運び、そこから日光までを陸路で運んで明神型大鳥居を完成させた。鳥居の大きさは高さ9.2m、柱間6.7m、柱の直径3.6mで、石造りとしては国内最大ということである。
家光による現在の豪華絢爛な日光東照宮の大造替はそれから約20年後、寛永13年(1636)のことであるが、質素と言われた当初の「東照社」に、そのような大きな鳥居を納めたということである。
柱には以下のように刻まれている。
奉寄進 日光山
東照大権現御寶前石鳥居者 於筑前國削鉅石造
大柱而運之南海以達于當山者也
元和四年戊午四月十七日 黒田筑前守藤原長政(かなり雑な著者拙訳)
東照大権現の石鳥居は、筑前国から削り出した巨石で作った。
大柱は南海を運搬して、日光山に寄進したものである。
元和4年(1618)4月17日 黒田長政
これがざっと振り返った約400年前の出来事である。
今回は、前述の赤マーカーラインの「乙女河岸から日光までを陸路で運んで」のところを掘り下げる。
福岡の巨石
肝心なここからは、今市史談会の会員でもある田邉博彬氏の著書「日光市の幕末と近代化への道」から引用させていただく。
さらに「十石坂」の名の由来について地元から批判の声が上がった。(十石坂を通ったのは)黒田長政が東照宮に納めた石鳥居でなく、長畑石だったというのである。
「日光市の幕末と近代化への道」 田邉博彬氏著 2022年
これも調べ直してみると、鳥居は日光街道を通り、十石坂がある例幣使街道を通ったのは長畑石であることが判明した。決め手となったのは、鳥居を運んだ当事者の黒田藩が編さんした「黒田家譜」と、これも東照宮元禄大修理のときにお手伝いを任され、長畑石の運搬を担当した伊達藩が編さんした「伊達治家記録」であった。
ということである。
「黒田家譜」は、3代藩主黒田光之の命により、寛文11年(1671)に編纂を始め、元禄元年(1688)に完成したものであり、元和から約50年後の第二史料である。
つづいて、また引用を進めよう。
この誤りはどこから生じたのか追跡した。驚くことに鳥居が運ばれてから335年も過ぎた昭和27年(1952)に、宇都宮大学の大島延次郎氏が下野史学会に寄稿した「間々田乙女河岸と日光廟との相関性」のなかの「今市町吉沢地内に在る坂路も、蓋し(けだし。「思うに」の意)この巨石を1本運送するに米10石の食料を要したので十石坂の名を得たのであろう」の記述が発生源であった。
「日光市の幕末と近代化への道」 田邉博彬氏著 2022年
このように、鳥居の建設からかなりの年月を経た後世の研究者の「だろう」が「である」に変わってしまったのだ。大島延次郎博士は非常に著名な学者であるが故、その発言を見聞きした人々はこれが事実と理解してしまったのだろう。
黒田家譜を読む
ここで、僕自身も気合を入れて黒田家譜を読んでみることする。黒田家譜は、福岡県立図書館がPDFで無料公開してくれている。14巻が鳥居を運んだことについて触れている巻になる。
はっきりいって僕にはよく読めないのだが、拙訳しよう。
「長政は日光山に鳥居を建立し奉らんため、筑前国志摩郡のお山から大石を選び鳥居に作らせ、大船に乗せて南海を廻らせ、武州隅田川から川舟に移し、栗橋まで利根川を登らせ、古賀(古河?)より陸地をやり、宇都宮を通りて日光山へ着。9月17日御廟前に立たるる」という箇所がある。
なんということだ。端から、小山の乙女河岸に着岸したことさえ僕は間違っていたということになる。
以前乙女河岸を訪れた僕は、そこに転がっている大きな石柱と案内板を見て、これこそが日光東照宮の大鳥居の一部なんだと解釈してしまっていた。
だいたいにおいて、日光東照宮の大鳥居は「花崗岩」であり、乙女河岸のこの石柱は「白御影石」である。
巨石を運んだルート
ここで、福岡県の可也山から切り出された巨石が、どこを通って日光まで運ばれたのかを整理してみよう。
正)隅田川、利根川を遡上し古河からは日光街道を進み、宇都宮経由で日光まで運んだ。
誤)隅田川、利根川、渡良瀬川、思川と遡上し、乙女河岸から壬生通(例幣使街道)を運んだ。十石坂では大変だった。
距離的には壬生通(例幣使街道)の方が近いため、松尾芭蕉やイザベラ・バードも壬生通を選んで日光に向かった。だが考えてみれば、「日光街道を通れば距離的には多少遠回り」だったとしても、こと渡河と言えば現・篠井IC周辺の田川を一度渡るだけであとはほぼ平坦なルートであるのに対し、例幣使街道は姿川や黒川を都合3回も渡河し、急坂混じりの曲がりくねった道を進むことになる。
コロで巨石をゴロゴロと進むのに、どちらのルートを選ぶのかといったら、普通は日光街道を選ぶのだろう。
「地元民には常識」と言われることも、諸先輩方のように一度疑ってみることが重要なのだと非常に勉強になりました。
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