今回は戦後の開校からわずか25年ほどしか存在しなかった「藤原町立鬼怒川小学校瑞穂分校」について調べてみた。
瑞穂分校は栃木県道63号藤原宇都宮線、起点の日光市藤原から西の尚仁沢湧水や塩谷町玉生方面に向かって約4km進んだ場所にあった。
釈迦ヶ岳開拓と瑞穂分校
太平洋戦争の敗北後、外地からの引揚者や軍人、農家の次男三男などは職にあぶれ、食料は底をつく有様だった。そんな折、彼らを中心とした生きる糧を求める人々が各地の開拓地に住居を構えた。
「開拓」とは、Wikipediaによると「未開の地に分け入り住居や農地を造り、森を林に変え、社会基盤である道路、鉄道や治水また安定的な水の供給を図り最終的に社会や街や都市を形成していく初期の過程」を指す。
釈迦ヶ岳の開拓の始まりは昭和20年(1945)4月24日、宇都宮農林専門学校(現・宇都宮大学農学部)の教師や生徒によるものである。このあたりの標高(約800~1,000m)と緯度は北海道南部に相当したため、馬鈴薯の栽培や牛の放牧に適した場所ではないかとの判断であった。
しかし開拓の初期はそれらはなかなか軌道には乗らず、入植者たちはとにかく食べ物に事欠いた。あわやひえを育てるがこれらは家族の腹を十分に膨らませるには至らず、また現金収入も必要だったため、伐木や営林署から払い下げてもらった原木を炭に焼き、それを担いで悪路を藤原まで下り、わずかながらではあるが金銭を得るといった生活だった。ただ、現代の我々が想像する「悪路」と、当時の「悪路」は全く次元が異なるものであろうことは想像に難くない。
釈迦ヶ岳の入植者が一番多かった年は昭和22年(1947)の50戸で、すなわち子ども達も一番多かった年となる。その子どもたちを受け入れる学校は藤原町立第一小学校鬼怒川分校(翌年昭和23年から藤原町立鬼怒川小学校と改称)であったが、釈迦ヶ岳から鬼怒川分校までは大人の脚でも片道2時間を要し、未舗装で土や岩がむき出しの道は時折クマやイノシシ、マムシも出没し、子どもたちの脚力体力で通うことは現実的に不可能であった。
そんな折、昭和23年(1948)頃、満州からの引揚者で教師の資格を持つ市川数馬がしいたけ栽培や大根作りの実習をしながら子どもたちに勉強を教え始め、翌年昭和24年(1949)、増えてきた子どもに教育を施すべく「藤原町大字藤原1821」に寺子屋式に鬼怒川小学校瑞穂分校が”仮”開校された。
さらにその後昭和27年(1952)、正式な認可を得て23人の児童とともに「藤原町立鬼怒川小学校瑞穂分校」が正式に開校となった。
昭和36年(1962)になると釈迦ヶ岳の集落に電気が通い、その翌年には簡易水道が敷かれ、岩がごろごろしていた県道が拡幅され、集乳車や農作物を運ぶクルマが「ようやく」通れるようになった。しかしそれでも入植した人々は農業で生活を支える思惑が外れ次々と土地を離れていった。昭和37年(1962)に児童数が一桁になると、その後は減少の一途を辿っていった。
昭和51年(1976)には児童は3人しかおらず、鬼怒川小学校に統合されることが決定した。しかしこのあたりはバスも通らず大変な悪路であり、児童が鬼怒川小に通うことは非常な困難が予測された。未舗装の岩だらけのでこぼこ道は晴れれば土埃が舞い、雨が降ればぬかるみと岩で自動車は立ち往生した。藤原町教育委員会はなるべく児童の負担が減るようにとスクールバスならぬ「スクールジープ」を購入して、高原に暮らす児童の送迎に利用した。
昭和51年(1976)4月8日は新しく通う鬼怒川小学校の始業式であった。朝、分校前に集まった子どもたちは待機していた真新しいジープに乗り込んだ。
当時の藤原町の広報紙「広報ふじはら」には、これから朝に1回、夕に2回ジープを運転して往復してくれる運転手の説明を聞き、「よろしくお願いします」と頭を下げて緊張の面持ちで初登校を迎えた児童たちの様子が掲載されている。
下の写真がそのスクールジープである。現在も残っているならかなりシブい型である。背景の校舎を見てみると、開校当初からほとんど変わっていないことがわかる。
以下の表は瑞穂分校の教職員と児童数である。校長は本校である鬼怒川小学校の校長名である。
年度 | 校長 | 職員 | 児童数 |
昭和27 | 竹沢長一郎 | 市川 数馬 | 23 |
28 | ↓ | ↓ | 22 |
29 | ↓ | ↓ | 24 |
30 | ↓ | ↓ | 19 |
31 | ↓ | ↓ | 17 |
32 | ↓ | 小池 広吉 | 16 |
33 | ↓ | ↓ | 14 |
34 | ↓ | ↓ | 13 |
35 | ↓ | ↓ | 13 |
36 | 大塚 義夫 | 小池 広吉 福田正直信 | 14 |
37 | ↓ | 小池 広吉 | 8 |
38 | 栗原 光男 | ↓ | 7 |
39 | ↓ | ↓ | 7 |
40 | ↓ | ↓ | 5 |
41 | ↓ | ↓ | 7 |
42 | ↓ | 永岡 武夫 赤羽 清志 | 6 |
43 | ↓ | ↓ | 6 |
44 | 戸室 至 | 永岡 武雄 福田正直信 | 6 |
45 | ↓ | ↓ | 7 |
46 | ↓ | ↓ | 8 |
47 | 沼尾 憲 | ↓ | 5 |
48 | ↓ | ↓ | 5 |
49 | ↓ | ↓ | 4 |
50 | ↓ | 永岡 武雄 酒井 守男 | 3 |
さて、なぜ瑞穂分校は「瑞穂」と名がつけられたのだろう。
昭和19年(1944) に宇都宮農林専門学校が当地の開拓を始めた当初「宇都宮農専開拓(昭和19年より22年)」と呼ばれていたこの地は、数年ごとの極めて短期間で「瑞穂開拓(昭和20年より24年)」「鬼怒川開拓(昭和24年より27年)」と名称を変え、昭和27年(1952)頃から「釈迦ヶ岳開拓」になって現在に至る。これは移住者の中でのトラブルもあり、組合長が変わる、または組合が分裂するなど、なかなか一筋縄ではいかなかった開拓初期の苦労が伺える出来事である。
前述の市川先生が寺子屋的に塾を始めたときが「瑞穂開拓」と呼ばれていた頃なので、分校発足時にもそのまま「瑞穂」の字を当てはめたのであろうと思われる。
現在、この跡地には十二神社や釈迦ヶ岳自治公民館などがあるが、分校周囲に居住されているらしい家は1軒しか見当たらなかった。広大な釈迦ヶ岳開拓に点在する戸数は現在3戸、極めて少子化で、極めて高齢化が進んでおり、後継者はなかなかおらず、離農はすなわち即下山を意味する集落なのだ。
現在、校舎の跡地を歩いてみると、今も幾つかの当時の名残を見ることができる。
十二神社
この地の十二神社は、昭和23(1948)年11月3日、ふもとの藤原の十二神社より分祀されたものであり、当初は小泉晴市氏宅の裏手の小高い丘に祀られた。工費は2,000円で、藤原の大工・星健次によって建立された。
次いで昭和51(1976)年10月9日、老朽化が激しくなったために地元住民の浄財によりこの地に新築、遷座された。
校地の跡
市川数馬先生の移動
村に2台しかなかったラジオを聞きに(釈迦ヶ岳開拓農協の組合長と市川先生の教員住宅のみ)市川先生の家に集まった分校の生徒たちの写真が残っている。 釈迦ヶ岳開拓の教育の黎明を担った市川数馬先生は、昭和32年(1957)3月で転勤となり、釈迦ヶ岳で約10年を過ごして山を降りた。当時の児童数は17名。
手記「分校あれこれ」
最後に、「藤原町教育短信第4号(昭和49年11月2日)」に掲載された瑞穂分校主任の永岡武夫先生の手記「分校あれこれ」から、当時の瑞穂分校の様子を転載させていただく。永岡先生は昭和42年(1967)に瑞穂分校に赴任し、廃校までの9年間を釈迦ヶ岳開拓で過ごした。
(前略)当時職員室とは名ばかりで、カバーのとれたみかん箱みたいな椅子が3脚、事務用机1脚、教室は古ぼけて、天井から柱、羽目板にいたるまでまっくろけ、ストーブの薪の煙のためにすすけたのであろう。ネダが腐り、歩くとゆらゆら揺れ、今にも抜けてしまうかと心配。窓ガラスはこわれ、すきまだらけ、台風シーズンには周囲の支柱が朽ち果てているのでビクビクもの。雨降りの日には床にバケツをいくつ置いても足りなかった。 校庭は広いが草ぼうぼう、石ころだらけの分校前のせまい県道をたまに通る人が、「何だろう?」と首をかしげ、庭の隅にあるブランコと古びた低鉄棒を発見して、はじめて「学校らしい!」とつぶやくのを何度か耳にした。 (中略) 赴任当時、郵便や新聞が無集配地域であったので、とても淋しかった。今は集乳車が運んでくれるのでとても助かる。しかし毎年12月から3月までは集乳車が一日おきになるので、一日か二日おくれのニュース伝達となり、もっぱらテレビと風の便りに依存することになる。 もう一つの苦労は冬期の水不足であった。近くの谷川から取る簡易水道が、部落で冬中出しっぱなしにするので部落の家より高所にある分校へは一滴も来なくなり、やむなく雪を溶かしたり雨どいから落ちる雨水を飲んだりしたこともしばしばだったが、今は町役場のおかげでそのようなこともなくなり、助かっている。 熊が出没するので児童に鈴を持たせて登校させたこともある。これまで人畜に被害はないが、作物、特にトウモロコシの被害は毎年くり返されている。まむしの出没もさかんで、うっかり道の端や草むらの近くなどは歩かぬことになっている。いつも道の真ん中を歩けと赴任早々部落の人に注意され、依頼このいましめを固く守っている。 (中略) 単身赴任だから自炊生活を余儀なくされ、部落に店がないからすべて必需品は今市や藤原などからリュックで背負いこんでくる。冷蔵庫などないから、たいがい缶詰や干物でまにあわせる。野菜も玉ねぎ・キャベツ・ジャガイモ等、保存のきくものを用意しておく。戦時中を思えば結構しのげる。たまに実家に帰ったとき新鮮な魚や肉類を食いだめしてくる…といった生活である。 (中略) 山では病気には絶対になれない。医者が遠すぎる。人里離れた山峡の小さな分校にも、無限の可能性を秘めた子どもたちが生活している。あくまでも澄みきった大空のもと、四季折々の美しい大自然の中の分校、その特質を生かして、明日への子どもを育てるために頑張ろう。
- 昭和24年(1949) 仮設鬼怒川小学校瑞穂分校として藤原町大字藤原1821に開校
- 昭和27年(1952) 県教育委員会の認可を受け正式に鬼怒川小学校瑞穂分校として成立
- 昭和29年(1954) 校舎を現在地である大字藤原1839に移築。翌年、教員住宅を新設。
- 昭和35年(1960) 水道施設新設。
- 昭和51年(1976) 鬼怒川小学校に統合、廃校。
参考文献
「藤原町郷土誌 地誌編」
「藤原町郷土誌 歴史編」
「藤原町史」
「鬼怒川小学校独立三十周年記念誌」
「とちぎ廃なるもの」 手塚晴夫
「藤原町教育短信第4号」(昭和49年11月2日)
「釈迦ヶ岳開拓史」 香川健二
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