瀧尋常小学校 (旧藤原町の廃校04)

 瀧尋常小学校たきじんじょうしょうがっこう(以降、現代の字で「滝尋常小学校」とする)は、現在の住所で言うところの日光市鬼怒川温泉滝に存在した小学校である。
 今回はこの小学校の創設から廃校までの歴史を辿ってみよう。

開校

 滝小学校の開校年度は「明治15年(1882)説」と「明治19年(1886)説」がある。その後も明治年間は資料によって幾分年度の違いが見られるが、これは例によって開校当初は「校務日誌」のようなものが整備されていなかったからだろう。
 いずれにせよ開校の場所は滝村字和田沼で、沼尾浅吉氏が所有する土地を借り受けて「滝小学校」とした。これは現在の鬼怒川温泉ロープウェイの周辺、いわゆる「花の街」と言われるあたりである。
 遡ること明治7年(1874)、藤原村、滝村は連合して藤原村清隆寺の境内に仮校舎を建設し、「藤原学校」を開校したが、滝村はそこより分離する形で新しい小学校を作ったことになる。

 その後の滝小学校は、年代によって藤原尋常小学校大原尋常小学校の滝分教場となるが、明治33年、小学校令改正により独立し「滝尋常小学校」とした。

 大正6年(1917)には字和田沼の校舎の隣接地に校舎を新築移転した。これは栃木尋常中学校(現・宇都宮高校)で漢文教師をしていた「栗本義喬くりもとよしたか」氏の土地の寄付によるものである。

栗本義喬と螟蛉塾

 ここで、栗本義喬くりもとよしたか氏についてすこしお伝えしたいと思う。

 栗本義喬くりもとよしたか(弘化元年(1845)-大正6年(1917))は、千葉県香取市佐原さわらで漢学塾である「螟蛉めいれい塾」を経営していた。
 時は明治10年代後半頃、時代はまさに鹿鳴館時代と呼ばれた欧化主義の真っ只中であったが、栗本は西欧化の風潮を好んでいなかった。螟蛉塾は佐原下諏訪の田んぼに囲まれた廃寺、長寿山常照寺を利用した私塾で、栗本はこの時代にあってもちょんまげ姿であったというからその浮世離れも並外れている。
 螟蛉塾は塾生に漢学と朱子学を徹底して叩き込み、栗本は塾生達とともに寺で共同生活をした。その教え方は「独誦反復の自習」であったという。いわゆる四書五経を徹底して素読し、日本語に書き下すものだ。
 塾生の中には広辞苑の編纂者で文化勲章受章者の新村出しんむらいずるらの著名人も多かったが、螟蛉塾は明治20年(1887)には閉鎖され、栗本は教師となった。

 その後、栗本は旧制第一高等学校(現・東京大学)の漢文教師を経て、明治26年(1893)には栃木尋常中学校(現・宇都宮高校)に漢文教師として赴任したとあるため、漢文の力は相当なものであったことが伺える。
 栗本は度々訪れていた滝温泉(現在の鬼怒川温泉)の渓谷美を深く愛するようになり、50歳代半ばを過ぎた明治34年(1901)に教師を退職すると、翌年の明治35年2月に滝温泉の権利を取得、その周辺土地を買収し戸籍も藤原村に移した。
 但し、住居自体は宇都宮にあったと思われる。

滝温泉

 鬼怒川温泉は、元禄4年(1691)に沼尾重兵衛(金兵衛とも)によって発見されたと言われ当時「滝温泉」と呼ばれた。滝温泉は日光詣の大名や僧侶など、ごく限られた人々しか立ち入りを許されておらず、江戸時代から下滝坪の16名の共有となっていた。
 明治時代になって滝温泉は一般の人々に開放されたが、記録では明治初頭の年間の入浴客は200人程度と、ひなびた湯治場の温泉であったことが伺える。
 当時の湯船は鬼怒川の川辺に複数個あり、河川の水が混ざることによって入浴可能な温度に希釈されていた。
 明治21年(1888)、共同所有者達が相談し、湯船に横たわっている巨石を爆破して浴槽を広くしようと考えた。当時は会津西街道が改修中で、大岩を砕く爆薬の威力を目にした村民がこれを利用したのだが、あまりの威力に巨石はおろか湯船も一部損壊、必要以上の川の水が侵入してしまい、温泉の温度が極端に下がってしまった。
 滝温泉は客足が遠のき、そのため明治34年(1901)頃、共同所有者たちは若干の金で栗本に温泉を譲る話し合いを行った。余談であるが、温泉譲渡が決まった際の宴会の席で、参加した関係者の膳に1円ずつが添えられていたとも言われている(藤原町史通史編)。

滝尋常小学校校地の寄付

 栗本は大字滝の国有林の下げ戻しで村民の相談役になるなど慕われた人物であったが、大正6年(1917)には旧校地の隣接地、字和田沼の所有地約1,300坪を寄付し、滝尋常小学校は校舎を新築移転した。

地理院地図を加工して作成。大正元年測図。

栗本義喬の顕彰碑

 藤原村は栗本義喬の徳を称え、昭和2年(1927)と昭和52年(1977)の2回に渡って「栗本義喬先生顕彰けんしょう碑」「栗本氏頌徳しょうとく碑」を建立している。

栗本義喬先生顕彰碑(昭和53年)
栗本義喬先生顕彰碑(昭和52年)
栗本義喬先生顕彰碑(昭和2年)
栗本氏頌徳碑(昭和2年)

 彫刻された内容は、「栗本義喬氏は育英に多大な功績を残し、下滝温泉他10町歩を所有していたが、滝小学校の敷地の選定が難航しているのを聞き及ぶと、校地として1,300余坪の土地を寄付した。ここにその徳を称え永久にこれを伝える」といった内容だ。

藤原村立滝尋常小学校

 写真のあたり一帯が校地だったと思われ、お住いの方々に話を伺うと、「このあたりに職員室があって松の木が生えていたらしい」など、有意義な話を聞くことができた。写真右手のアスファルトが補修されて側溝が不自然に曲がっているあたりがその松の跡である。本当かどうかはいずれにせよ、当時の様子を想像できることも幸せである。

藤原分教場と合併

 大正12年(1923)、大原(現在の藤原中学校)の場所に藤原尋常高等小学校が完成すると、そこを本校として藤原、滝、小佐越高徳、高原の各校はそれぞれ藤原尋常高等小学校の分教場と改称した。藤原、滝、小佐越の児童は4年生までを各分教場で学び、5年生からは大原の藤原尋常高等小学校に通った。
 昭和14年(1939)、藤原分教場、滝分教場を合併して、大字藤原19番地(現在の鬼怒川小学校の場所)に各校舎をそれぞれ移築し、2つの校舎をぴたりとくっつけて1つの校舎にし、「鬼怒川分教室」として開校した。
 これが後に、現在の「日光市立鬼怒川小学校」となる。

 ちなみに開校から10年ほど経った昭和25年前後の「2つの校舎を移築してぴたりとくっつけた」校舎で教鞭をとる当時の教職員の話が鬼怒川小学校30周年記念誌に残っている。
「校舎は朽ちた支柱に支えられた平屋建てのオンボロ校舎で、台風が来たらひとたまりもなく倒壊しそうだった」
「校地はどこまでなのかが判然とせず、スコップやもっこでごろごろとした尖った石を拾い、水はけの悪い校庭を整備した」
「屋根瓦は不規則に並んでいて、ところどころ瓦は落ち、窓ガラスも破損が多く、残っているものも盗難防止のために1枚1枚に学校名が書いてあった」
 窓ガラスを盗んで何になるのかという疑問も湧くが、この他にも開校から10年経過してもかなりの悪条件であった外観と教育環境が綴られていて、これはこれで当時の様子がよくわかって興味深い。
 それでも合併当時の児童数は340人と、にぎやかだったことが記録として残っている。

滝温泉のその後

 結びに、滝温泉と栗本義喬のその後を辿ってこの章を締めくくる。

 江戸時代に村民により発見された鬼怒川西岸(右岸)の滝温泉に続き、明治2年(1869)には川を挟んで反対側の東岸(左岸)にも藤原温泉が発見された。栗本は明治34年(1901)頃の滝温泉買収後、鉄管を用いて源泉を巧みに移動し、爆破に失敗した湯船や湯温を回復することに成功した。
 この頃、東岸の藤原温泉には「麻屋あさや」という旅人宿があり、八木澤善八(2代目)が大字藤原で炭問屋と麻問屋を営みながら宿を経営していた。これが現在も鬼怒川西岸で堂々たる容姿を誇る「あさやホテル」の前身であり、当初のあさやは今と違って川の対岸にあったのだ。
 藤原温泉は明治の中頃から「麻屋温泉」とも呼ばれ、その名称は大正3年に鉄道院が発行した旅行案内にも見ることができる。
 当時は会津西街道の改修が完成して人の往来が盛んになったこともあり、この周辺の滝、藤原の温泉はなかなかの盛況をみた。

 その後、鬼怒川に鬼怒川水力発電所が竣工すると、栗山などの上流からの取水により鬼怒川の水位が下がるとともに、川底から新源泉が次々と発見された。

 大正4年(1915)、体調を崩した栗本は長年住み慣れた宇都宮を離れ、千葉県香取市佐原の妻の実家に引っ越して静養した。
 大正5年(1916)、麻屋の八木澤善八は佐原の栗本のもとを訪ね、滝温泉の権利の譲渡を交渉した。翌年の大正6年(1917)、八木澤は金1万円の10年分割払いという契約で滝温泉の権利を得ることに成功した。八木澤は温泉権を取得すると鉄管と浴槽を修理し、温泉宿として施設を拡大していった。これが現在の「あさやホテル」である。
 ちなみにもともと麻屋があった東岸の敷地は、麻屋の支店として「鬼怒川第一ホテル」となった。

 同年、栗本は滝小学校の用地として字和田沼の校地を寄付し、永眠した。

 昭和2年(1927)には滝温泉と藤原温泉を合わせて鬼怒川温泉と呼ぶようになり、この頃から旅館・ホテルが開業を始め、鬼怒川温泉は次第に一大観光地として発展していった。

  • 明治19年(1886) 滝村字和田沼の沼尾浅吉氏の所有地を借り受け開校。
  • 明治20年(1887) 藤原尋常小学校滝分教室と改称
  • 明治25年(1892) 藤原尋常小学校滝分校と改称
  • 明治28年(1895) 大原尋常小学校滝分校と改称
  • 明治33年(1990) 小学校令改正により独立。滝尋常小学校と称する。
  • 大正6年(1917) 栗本義喬氏の校地寄付により隣接地に校舎を新築移転。
  • 大正10年(1921) 藤原尋常高等小学校滝分教場と改称
  • 昭和14年(1939) 藤原尋常高等小学校の滝分教場と藤原分教場を合併し、校舎を移築し「藤原尋常高等小学校鬼怒川分教場」と改称。
  • 昭和23年(1948) 藤原町立鬼怒川小学校として独立。

参考文献 

「藤原町郷土誌 地誌編」
「藤原町郷土誌 歴史編」
「藤原町史」
「鬼怒川小学校独立三十周年記念誌」
「益田古峯小伝 : 九州大学「益田文庫」の旧蔵者」 柴田 篤
「広辞苑はなぜ生まれたか 新村出の生きた軌跡」 新村恭
「曲折の行路―昭和史と益田豊彦」 西日本新聞

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