今市の廃校8 小代尋常小学校

小代尋常小学校

 小代尋常小学校は、今市史談会の会員の皆様には「知新舎」という名称のほうがわかりやすいのかもしれない。その詳しい(あるいは正確な)歴史は駒場明房氏、渡辺武雄氏、佐藤治由先生ら偉大な先輩方の著書に詳しいのでそちらを参考にしていただきたい。

 知新舎は、落合地区に於いて近代教育の黎明を担った学校である。
 明治6年(1873)、廃寺となっていた柳池山東岸寺を借用し開校した知新舎は、長畑、岩崎、板橋、武子、明神に「分教室」を置いた。この記録は「分教室」「分教場」の名称が記録によって一致していないため、ここではまとめて「分教室」と記載するが、古い記録では「本校1,分教室2,分教場2の都合5箇所で児童の教育をなし」とある。また、後に経営基盤が整った分教室は独立し、岩崎学舎や長畑学舎などとなった。

校名開校時期場所その後
知新舎明治6年10月東岸寺(廃寺)明治28年廃校
知新舎第一分校(岩崎学舎)明治6年11月正観寺(廃寺)落合東小学校
長畑分教室明治6年11月長野浦清吾宅落合西小学校
板橋分教室明治7年4月福生寺廃校時期不明
武子分教室明治7年5月調べていない調べていない
明神分教室明治8年10月大通寺明治22年廃校

 知新舎は明治14年(1881)頃には寺地の払い下げを受け、本堂跡地に校舎を新築し、明治20年(1887)からは小代尋常小学校と称した。

 明治22年(1889)には町村制施行により、文挟村、板橋村、小代村、明神村、長畑村、手岡村、岩崎村、小倉村が合併し上都賀郡落合村が成立する。当時この学区は前述の通り5校で子弟の教育を行っていたが、落合村が学校に付けることが出来る予算が限られていて、これを各校に分配すると学校の運営や教師の給与を払うには不足していた。年々増えていく児童生徒を収容するためには、寺院を借用した校舎では十分でなかったことも大きな問題となっていた。そこで明治25年(1892)、広い落合村を二学区に分け、ひとつを大字文挾小字桑原に落合尋常小学校東校、大字長畑小字屋敷跡に西校をそれぞれ設置することが決定された。

 明治25年(1892)に普門寺を利用して西校(明治28年(1895)に現在地に新築)、続いて明治28年(1895)に新築で東校が開校となり、これにより明治28年(1895)をもって小代尋常小学校は廃校となった。廃校時の生徒数は23名で、准訓導の佐藤卯吉は生徒を率いて西校に転入となった。

 現在、知新舎の校地であった場所は大部分が東武鉄道の線路敷地になっていて、令和の現在、かろうじて残っていた竹林の中の薬師堂は残念なことに倒壊しており、先輩方の書籍の写真に見られるような立派なお堂は見ることはもはや叶わない。

  • 明治6年(1873) 小代村の東岸寺(廃寺)の本堂を借用し、知新舎と称して開校
  • 明治14年(1881) 寺地払い下げを受け、本堂跡地に校舎を新築
  • 明治20年(1887) 小代尋常小学校と改称
  • 明治28年(1895) 落合尋常小学校東校、西校の開校により廃校。
案内板も設置された知新舎跡線路向こうの薬師堂はもう倒壊してしまった

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