藤原尋常小学校 (旧藤原町の廃校03)

 藤原尋常小学校の創立はいくつかの書物の中で違いが見られ、明治7年5月、明治11年3月説があるが、今回は明治7年説で開校の歴史を振り返ってみる。

 藤原村は南山通り(会津西街道)が整備された江戸時代に宿場町として栄え、会津の物資を輸送する人や馬、商人、時には武士や会津藩主が宿泊した。本陣を努めた星家は畳数が100畳を超える大広間がある雄大なものだった。その他にも柏や、会津屋、太田屋、藤屋、角屋などの宿屋が並び、最盛期には村の中が祭りのような状態が続いたという。
 しかし、戊辰戦争で藤原村は下平五軒を残してほとんど焼かれてしまったため、昔の構造を保っている家は全く無くなった。さらには明治16年(1883)になると上野から徐々に鉄道が敷設され始め、宇都宮からさらに白河を越えて行く頃になると、北へ向けた一切の荷物は鉄道を経由して運ばれるようになったために村は苦境に落ちいった。
 そんな時代背景を思い浮かべながら、藤原尋常小学校の歴史を辿ってみよう。 

清隆寺での開校

 藤原村、滝村は明治7年(1874)、連合して藤原村清隆寺の境内に仮校舎を建設し、「藤原学校」を開校した(土地勘が無い方のために説明すると、藤原村は現在の新藤原駅の周辺、滝村はあさやホテルの周辺である)。
 当時の藤原村は周辺の村の中心部というべき場所で、滝や大原に比べ格段に多い戸数があり、旧名主で資産家でもあった星次郎輔をはじめ、裕福な家が多かった。そのため記録上は定かではないが、藤原地域の中で一番早い開校だったのではないかという説もあるが真相はわからない。開校当時は男子23人、女子5人の生徒と教師1名で、間口5間、奥行3間のという仮校舎での開校との記録がある。当時の生徒数が少ないのは、まだ十分に義務教育の意義が伝わっておらず、不就学児童が多かったことがあり、また女子生徒が少ないことは当時の社会では女子に学問は不要という考えが強かったからである。

宝塔山清隆寺

清隆寺

 仮校舎が置かれた清隆寺は日蓮宗の寺である。文永2年(1265)、日蓮が那須、塩原の温泉で湯治をし、帰途に藤原に立ち寄った際、藤原の里主、主水忠房の家に宿泊した。忠房は深く日蓮に帰依し、日蓮は逗留7日目に自ら坐像を彫刻して、忠房の性を星、通称を次郎輔と改めた。日蓮が去った23年後の正応元年(1288)、星氏は僧の日忍を招いて清隆寺を創建し、日蓮自作の木製の坐像を本尊とした。

 元禄年間(1688‐1704)には堂宇が全焼したが本尊は難を免れ、数年後に星氏は寺を再建した。

 享保8年(1723)8月10日、五十里湖の決壊による大洪水のため一村は壊滅、その際に堂宇はもちろん、本尊、寺宝、石塔、記録のすべてを尽く損失した。しかしその数年後、星氏は大桑村の住民が木像の半身を水中で拾ったとの話を聞き、その像をもらい受け修理を施し、享保12年(1727)、堂宇を建築しこれを本堂に安置した。

 明治元年(1868)9月21日、藤原村は戊辰戦争の兵火により全戸を焼失した。清隆寺は堂宇や本尊さえも全焼損失の有様だった。
 清隆寺の檀徒で横浜に在住していた高徳村の半左衛門は横浜港の開港による工事に従事していたが、工事の最中にたまたま土中より日蓮の木造を見つけ、これを清隆寺に納めた。しかしこの時は未だ本堂が完成していなかったため、木造はしばらく星家に置かれ修理、彩色を加えられ、明治5年(1872)、完成した本堂に収められた。これが現在の本尊となっている。

慈眼寺に移転

藤原尋常小学校
慈眼寺に置かれた藤原尋常小学校(大正元年測図・国土地理院地図)

 明治17年(1884)には同村の慈眼寺の庭先に校舎を新築した。現在の慈眼寺は会津西街道より100mほど奥まった場所にあるが、当時は街道沿いに本堂があり、その寺地の一角に学校が設立されたと言われる。

藤原山慈眼寺(とうげんさんじげんじ)
当時はこの場所に本堂があり、学校もこのあたりにあったと思われる。

 新築した校舎は教室一つに8畳の職員室を備えていた小さな学校だったが、会津田島から今市までの間に唯一ガラス窓がはまっていた校舎だった。当時としては立派な校舎であったのだろう。
 村長であった星次郎輔(もちろん何代目か後の星次郎輔である)たちは新築落成した藤原学校の落成式に栃木県令の樺山資雄(元薩摩藩士)を招いた。当時の会津西街道は今市から大原付近までは馬車が通行できたが、大原以北は馬か徒歩以外の交通手段はなかった。
 星次郎輔らは落成式に訪れた県令に、ここまで来る道中やこれから先の会津西街道の難所の道路改修の必要性を説いた。星らはすでに何度かの請願を却下されていたが、粘り強く会津西街道の道路改修を嘆願し、それを受けてついに明治20年(1887)に藤原まで、次いで明治26年(1893)には今市―山王峠間の道路改修が完成した。

藤原山慈眼寺(とうげんさん じげんじ)

慈眼寺

 慈眼寺じげんじは今から1,200年以上前の奈良時代の創建とされる日蓮宗の寺であるが、もともとは天台宗の寺で、「日光原町中本寺明道院(地誌編輯材料取調書 藤原・栗山地区:日光市歴史民俗資料館篇)」の末寺だった。
 ただ、奈良時代の開基からの細かな由緒については不明な点も多い。これは、享保8年(1723)の五十里洪水や明治の戊辰戦争の兵火に罹り、慈眼寺の記録一切を失っているからである。

 ちなみに、会津高田出身の天海は高田に向かう際にこの寺を宿所としたとされている。
 とは言え、天海は寛永20年(1643)の死去の5年後となる寛永25年(1648)に朝廷から諡号しごうとして「慈眼大師じげんだいし」の名を与えられたため、生前の天海が「おお、自分の名がついているから泊まってみよう」と思ったわけではない。
 本尊の「木造十一面観世音菩薩立像(日光市有形文化財)」は勝道上人の作と伝わる。中禅寺の立木観音、日光の清瀧寺の千手観音の三体を一本の桂の大木から造ったと言われており、これを総じて『一木(いちぼく)三体(さんたい)観音』と呼ばれている。

 明治期に改宗し、日蓮宗の寺となった。

「勝善碑ならびに馬頭観世音碑群」

勝善碑ならびに馬頭観世音碑群

 写真は日光市の有形民俗文化財に指定されている「勝善碑ならびに馬頭観世音碑群」である。
 会津西街道のこの地点は今でこそ道路が整備されているが、古くは断崖の難所として知られていた。事故死した馬の捨て場となっていたこの場所に、大切な馬を憐れみ供養した大小合わせて54基の勝善碑と馬頭観世音碑がある。これは周辺に点在していた石碑を昭和36年(1961)にこの場所に集めたものであり、江戸時代のものが14基、明治期が16基、大正期が16基、昭和初期のものが8基あり、人々の暮らしの形態が昭和になっても以前と同様だったことが伺える。


 さて、その後の明治42年には慈眼寺が現在地に移転したため校地が広くなり、廊下をつけ、教員住宅を改築し、便所の増築などを行った。それでも教室は一つ、教師も一人の小さな学校だったが、まもなくその2年後には教室も2つ、教師も2人で生徒も77人を数えた。

 当時の修学旅行の様子が「鬼怒川小学校30周年記念誌」に書かれている。生徒と教師の一団は朝の暗いうちに徒歩で藤原を出発し、1泊で日光まで往復したり、もしくは今市まで歩き、そこから明治23年に開通した宇都宮―日光間の蒸気機関車に乗って宇都宮にいくというものだった。ちなみに、藤原地区に蒸気機関車が走るのは大正6年(1917)に大原(現在の日光市立藤原中学校あたり)まで、大正8年(1919)に藤原までの路線が開通してからである。そのため、汽車はその当時の子ども達には一度は見てみたい、憧れの乗り物だったのであろう。

再度の新築移転(現・藤原地区集会所)

 増えていく生徒たちを収容するのは従来の校舎では不可能と判断した当寺の村長、星藤太は村議会に諮り、大正8年(1919)、工事費3,300円を投じて校地671坪あまりを購入し、82坪の平屋校舎を新築して移転した。場所は現在の藤原地区集会所(旧藤原保育園)の場所であり、3学級、生徒は100人を超えた。

 生徒はますます増加し、それに従って教員も増員したため、大正9年(1920)には校舎並びに教員住宅を増築した。

藤原尋常小学校
移転した藤原尋常小学校 (昭和8年作図。電子地形図25000(国土地理院)を加工して作成)
藤原集会所(藤原尋常小学校)
藤原地区集会所藤原地区集会所

 大正10年(1921)4月1日に現在の藤原中学校の場所に藤原尋常高等小学校(旧・大原尋常高等学校)が開校すると、ここ藤原尋常小学校は「藤原尋常高等小学校 藤原分教場」となり、生徒は4年生までを収容し、5,6年生は徒歩で藤原尋常高等小学校(旧・大原尋常小学校)まで通った。
 と簡単に言っても、大字藤原から大原の尋常高等小学校までは5km弱の道のりであり、舗装もされていない当時の道を歩いて通うのはなかなか大変なことであっただろう。大正8年(1919)には蒸気機関車である下野軌道が今市から藤原まで全通するが、現代と違い、子ども達が通学定期で汽車やバスで登下校するなんてことは夢にも思っていない時代だ。

鬼怒川分教場(大字藤原19番地)

 昭和14年(1939)3月31日、藤原分教場は滝分教場と合併し、大字藤原19番地(現在の鬼怒川小学校の場所)に「鬼怒川分教場」として移転した。ただし校舎は荒れた校庭に藤原分教場と滝分教場の木造校舎を移築してくっつけたもので、校舎は古く、倒壊しないように木の支柱で支えられていたことが記録に残っている(鬼怒川小学校独立30周年記念誌)。

 この鬼怒川分教場は戦後の昭和23年(1948)、独立して「藤原町立鬼怒川小学校」となった。

藤原尋常高等小学校 鬼怒川分教場
大字藤原19番地。現・鬼怒川小学校(昭和8年作図。電子地形図25000(国土地理院)を加工して作成)
  • 明治7年(1874) 藤原村・滝村の連合によって、藤原村清流寺境内に間口5間、奥行き3間の仮校舎を新築して「藤原学校」として開校する。
  • 明治8年(1875) 大原学校の第一分校となる。
  • 明治13年(1880) 改正教育法に基づき独立、「藤原小学校」と改称。
  • 明治17年(1884) 慈眼寺境内に校舎を新築し移転。
  • 明治19年(1886) 藤原村大字滝に「滝分教室」を開設する。
  • 明治20年(1887) 小学校令実施により「藤原尋常小学校」と改称。
  • 明治27年(1894) 大原尋常小学校の藤原分校となる。
  • 明治33年(1900) 独立し藤原尋常小学校と称する。
  • 明治42年(1909) 慈眼寺を移築し、境内全域が学校敷地となる。
  • 大正8年(1919) 校舎を新築移転。現在の藤原地区集会所(旧藤原保育園)の場所に校舎を新築した。
  • 大正10年(1921) 藤原尋常高等小学校の開校に伴い、「藤原尋常高等小学校藤原分教場」と改称。
  • 昭和14年(1939) 藤原分教場と滝分教場を合併し、現在の鬼怒川小学校の場所に「藤原尋常高等小学校鬼怒川分教場」と改称。
  • 昭和23年(1948) 戦後の学制改革により「藤原町立鬼怒川小学校」として独立。

コメント

タイトルとURLをコピーしました