今市町上水道敷設 (今市と宇都宮の水道の歴史 8)

 ここまで大正5年(1916)に給水を開始した宇都宮市の水道と今市の関連について調べたが、この章からは時代が下り、昭和20年代の話となる。

今市の上水道敷設の機運

 皆さんは聞いたことがないだろうか。

 「今市浄水場は宇都宮のものなんだよ。昔、今市は宇都宮に売っちゃったから」という話を。

 これは間違いではないが、正解とは言い難い。今市浄水場は大正年間の創設から一貫して宇都宮市の施設であり、今市町は、古くからあった灌漑用水である今市用水を「少し(当時は取水量の1/10ほど)分けてあげるね」と契約したに過ぎないからだ。

 これらのことは前回までの章に書いたわけだが、今回はそれから年月が経ち、昭和20年前半頃(1948~)、「宇都宮の上水道に水は分けてあげたが未だに上水道が通っていない今市町」を舞台にした話である。

 まずは、人口が増えた宇都宮の昭和初期の水事情から見てみよう。

宇都宮水道の拡張事業

大正時代に今市用水から引水された宇都宮水道は、大谷川の取水堰の故障のたびに数日に渡り断水した。昭和20年代の戦中・戦後に入ると水道開通後30余年を経過した水道鉄管はサビによって口径が小さくなり、宇都宮に運べる水の量は以前より少なくなっていた。更に宇都宮は人口増加も追い打ちをかけて水の量が圧倒的に不足し始め、昼間の断水や時間給水などは日常的なこととなり、水道利用者の不満はつのる一方であった。

 そこで昭和23年(1948)8月2日、宇都宮市長の佐藤和三郎は今市町に取水量の増加を求め、導水管の増設などを骨子とした水道拡張計画の交渉を始めた。宇都宮市は計画の同意が得られる前に今市まで建築資材を搬入するなど、必死だった。
 翌年の昭和24年(1949)には今市町と今市用水の下流域にあたる豊岡、大沢、篠井各村との交渉がまとまった(『今市用水路からの取水に関する確認書』昭和24年10月10日)。もちろん今市町も三ヶ村も用水量に全く余裕は無く拒絶したい気持ちも山々であったが、今市町と三ヶ村の、「互いに譲る気持ち」の発露が早期決着に結びついた。

 昭和24年(1949)10月22日、今市浄水場にて水道拡張工事の起工式が執り行われ、翌23日の下野新聞は「宇都宮は午後9時から午前5時までの断水に加え、夏季は昼間も断水する状況からようやく救われることなる」旨を報じた。

 そこに今市地震が襲ってくることになる。

 二ヶ月後の昭和24年(1949)12月26日、今市を震源地とする直下型地震「今市地震」が発生した。震度六の烈震に見舞われた今市は死者10名と多数の倒壊家屋の被害を出したが、もちろん導水管、日光街道沿いの宇都宮への送水管、今市浄水場の沈殿池や濾過池などの諸施設も甚大な被害を免れることはできなかった。宇都宮市は追加予算を計上して、今市から宇都宮市戸祭までの水道管の震災復旧工事も並行して行った。

 約2年後の昭和26年(1951)10月に拡張工事並びに震災復旧工事を完了した。工事前の給水量は最大1万㎥であったが(実際は管内のサビなどにより7,500㎥程度まで落ちていた)、拡張工事により一日の最大給水量は約2万㎥まで増大した。

今市地震と上水道敷設の機運 

 宇都宮市が今市町に設けた浄水場から初めて水道を整備した大正時代の頃、今市町民の中にも水道敷設の必要性を強調する者もいたが、行財政改面からみて一大事業である水道敷設の多額の費用を工面する方法は無く、「時期尚早」ということで話は立ち消えになっていた。懸案となっていた上水道敷設が一気にその期に達したのはそれから40有余年も後のことである。

 上水道敷設の声が高まった契機は、昭和24年(1949) 12月26日早朝、今市地方を震源とした大地震「今市地震」の発生である。巨大地震によって今市町にあった既設の井戸は地下水脈の移動によって涸れたり、あるいは井戸の損壊などの被害を受け、それに伴い町民は飲料水にも事欠き河川の水を利用する他無い生活を強いられた。

 この他に、過去5年間の今市町のコレラ等の伝染病患者発生数は平均1万人あたり29.1人であり、栃木県の発生率に比較して実に4.3倍の数字があった。これは灌漑用水や河川の水を使用することに起因するのは明白だった。

 今市町と当時の青木源吉町長は震災復興に傾注している最中であったが、町民からの水道敷設の要望の高まりを受け、この期を逸せず早急に水道を敷設すべきと町議会に諮った。町議会では全会一致で水道敷設の件が承認され、昭和25年(1950)6月19日、調査が開始された。

 昭和25年度中には国庫補助や地方債の起債の認可を得ることが決定し、水道敷設の事業資金の見通しがついたことから、昭和25年(1950) 12月12日、今市町議会において「今市町上水道敷設について」が審議され、原案どおりに可決した。それによると、

・水源の位置 栃木県上都賀郡今市町大字瀬川1335 宇都宮市水道今市浄水場内とする

・配水場の位置 栃木県上都賀郡今市町大字今市531-3

・給水区域 今市町全円とする。ただし当面は飲用水、消火用水が不足している市街地を給水区画とする。

・起工 昭和26年(1951)4月

・竣工 昭和28年(1953)3月 (後に一部設計変更により昭和29年3月に変更)

等が決定されている。

 要約すると、「既設の宇都宮市水道が管理所有する今市浄水場から浄水を分けてもらい、その隣接地に今市配水場を建設して、今市町に配水する」ということになる。宇都宮市水道の水源は今市用水からの取水であるので、宇都宮水道は通常使用する量に加え、今市町に供給する浄水の必要量を余分に取水することが取り決められた。

今市市水道配水場
今市町水道の今市配水場(春日町配水場)

 上水道敷設のための事業費予算は当初3,600万円としたが、折しも昭和25年に突発した朝鮮動乱のために資材が極端に値上がりし、最終的に4,500万円(内訳:国庫補助210万円、地方債3,520万円、一般会計746万円、その他24万円)で決定した。

 当時の町の人口は18,000人、そのうち給水対象区域である市街地の人口は13,000人であった。計画では15,000人の給水が可能と試算されていた。

今市配水場完成と今市市の誕生

 昭和26年(1951)9月10日、今市上水道の工事が着手され、同月14日に今市配水場(今市浄水場と区別するために春日町配水場とも)予定地で起工式が行われた。水道管敷設や事務所建築工事に今市の事業者がどのように関わったのかを見てみると、今市の柿沼建設工業㈱、磯辺建設㈱、㈱高橋平三郎商店、沼土建社、そして記念碑建立として須藤徳市郎の名が見える(今市市水道誌 今市市役所 昭和29年6月1日発行)。

 工事は順調に行われ、昭和27年(1952) 12月20日には一部の配水管が敷設されたので念願の通水式を挙行した。昭和29年(1954)3月31日、約二年半の工事期間を経て今市町上水道敷設工事のすべてが竣工し、同時にこの日、今市町は上都賀郡落合村、河内郡豊岡村を編入し市制を施行して今市市となった。同年5月1日から三日にかけて市制執行の記念行事が行われた。初日の一日は今市小学校の講堂で千余名が出席し、市制祝賀会と上水道竣工式が行われ、並行して隣接した今市配水場では上水道記念碑の除幕式が行われた。

今市市水道配水場
今市市水道配水場の正門
今市市水道配水場
今市市配水場の高架水槽

続く。

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