戸祭配水場 (今市と宇都宮の水道の歴史 7)

 「配水場」とは浄水場より配水管を通ってきた水を各蛇口まで導く役割をもち、何かのトラブルで浄水が一時的に止まってしまった場合でも安定して配水できるように、「配水池」として浄水をためておく役割も持つ。

 この章では戸祭山に築かれた「戸祭配水場」について調べてみた。

戸祭配水場

戸祭山、通称水道山

 配水場と配水池は国本村大字戸祭(現・宇都宮市戸祭)の戸祭山(以後「水道山」186.3m)に建設されることになった。山上までつながる工事に適した道がなかったため、まずは工事資材や送水管、配水管を搬入するための輸送路を設けることから始まった。大正2年(1913)11月30日、輸送路の工事が着手され、戸祭配水場の建設が始まった。

 輸送路は、日光街道沿いの資材置き場から水道山の下までの専用道路にレールを敷き、手押し車を使って資材を運搬することになった。しかしそこから山の頂上までの斜面は傾斜がきつく人力での輸送は不可能であったため、配水場地内に電動の巻揚機を設置してレール上を引っ張って資材を上げることとした。

出典:宇都宮水道誌

 下左図は昭和4年(1929)測量の戸祭配水場の周囲の地図である。日光街道から伸びる線が軌道の跡である。

「電子地形図25000(国土地理院)を加工して作成」  

水道山の階段

 水道山の西側には138段の階段が頂上まで続いている。これが巻揚機で資材を運搬した急坂である。この階段は作新学院の江川卓氏ら野球部員が練習で幾度となく登り下りを繰り返したものだそうだが、今でも学生の部活動や散策する住民が登り下りする姿が見られる。

出典:宇都宮水道誌

配水池

 創設当時から残る配水池。大谷石とレンガを組み合わせた創設期の雰囲気を今に伝える建造物である。浄水を貯めておく役割を持つ。戸祭配水場地内は現在立入禁止でこの建造物を見ることは出来ないため、写真は引用である。

 大正3年(1914)4月4日に開始された配水池の工事は、当初、掘削箇所はすべて土だと思われていたが、予想に反して掘削中に大岩盤が露出するなど何回かの設計変更を経て順次完成を迎えた。

 同時に宇都宮市内に配水管も設置され、戸祭周辺の現・国立栃木医療センターや警察学校、ろう学校のあたりにあった「陸軍第十四師団」や現・宇都宮駅西口や簗瀬あたりまでの配管も完成していった。

 あとは、通水試験を待つのみとなった。

 戸祭配水場は平成17年(2005)に第六号接合井とともに2005年度の土木学会選奨土木遺産を受賞し、翌年平成18年(2006)には今市浄水場、第六号接合井とともに国の登録有形文化財(建造物部門土木構造物)に登録された。

 スタジオジブリの映画監督、宮崎駿氏は戦時中の幼い頃に宇都宮に住んでいたが、遠足でここにやってきて、「レンガで出来た窓をみんなでかわりばんこに覗いた」ことをインタビューで語っている。

通水試験、そして給水開始

 大正4年(1915)九月四日、から、順次完成した配水管や給水管の通水試験が行われた。まずは今市浄水場から大沢村字御殿までの通水試験が開始され、どこも不具合なく成績は極めて良好だった。

 宇都宮市内の水道敷設工事も順次完成を迎え、いよいよ大正5年(1916)3月1日、宇都宮水道は悲願であった給水を開始した。

戸祭配水場高架水道塔

 宇都宮の北西部のあちらこちらから見える戸祭山の高い塔が「戸祭配水場高架水道塔」である。水道塔は平成8年(1996)10月に完成したもので、これによって近隣の高台にある住宅に自然流下方式による安定した給水ができるようになった。

戸祭配水場

続く。

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