日光街道を歩く09 第6日目

小山宿ー新田宿ー小金井宿

2019.02.19
自家用車で小山駅へーJR小金井駅から小山駅へ戻る
距離13.30 km 時間3:17:22 高度上昇44m

第6日目は、子どものお迎えの関係で時間が限られていたために距離は短め。旧日光街道は、旧国道4号線と平行に通る細い道である。JRの線路を隔てた東側には新4号線が通ってかなりの交通量だが、こちらの街道はとても穏やかである。

小山宿

 慶長13年(1608)から本多正純の城下町として整備され、近隣の寺社なども含め大改修を施し、小山宿と接する稲葉郷を含めて直線的に集落が作られた。明治天皇行幸の際に休憩所にもなり、そのことを示す碑も残る。

持宝寺

 宝亀3年(722)、弓削道鏡の開山と伝えられる。以前は御殿跡にあったが、本多正純の小山城拡張・大改修の際に、天翁院、興法寺、須賀神社とともに移動となった。現在山門は南向きだが、江戸時代には日光街道の方を向いていたという。

 境内の梵鐘は元禄2年(1689)に制作されたもので、小山市で唯一供出を免れたものであり、市の文化財に指定されている。

須賀神社

 天慶3年(940)、将門の乱を平定した藤原秀郷が京都の八坂神社から勧請したのが始まり。7月14日には例大祭が開かれ、日本一と言われる大神輿が渡御する。神輿を担ぐ時の掛け声が「アンゴステンノ!」と一風変わっている(南無牛頭天王)。その他市内最古の石鳥居や灯籠、もと小山城の庭石だった七ツ石など、広い境内に見るべきものがたくさんある。

佐野道標

 寛政12年(1800)建立の庚申塔を兼ねた道標。「左佐野道 右栃木道」と刻まれている。小山宿から思川の船渡しに繋がる途にあった。

小山評定

 慶長5年(1600)、徳川家康が重鎮とともに、石田三成との決戦につながる軍議を開いた場所。小山市役所の駐車場に碑が残っている。

城山公園

 小山城址。小山城は藤原秀郷の築城に始まり、小山氏の居城であった。江戸時代になると譜代の大名本多正純が城主となったが、元和5年(1619)へ宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった。

天翁院

 久寿2年(1155)小山政光の開基。本尊は釈迦如来。小山氏一族の廟所、戊辰戦争時の戦死者碑、臼砲の砲弾などが保存されている。

日枝神社

 喜沢村の鎮守。社殿脇には土塁がしっかり残っているが、祇園城の出城と考えられている。

薬師堂の道標

 道標を兼ねた念仏供養地蔵には、亨保3年(1718)と刻まれた「右江奥州海道」「左江日光海道」とある。かつては喜沢追分にあったものである。幕府は1716年にはすでにこの2本の道を「道中」とするお触れを出していたのだが、こちらまではそれが統一されていなかったということである。

喜沢追分

 喜沢の追分は、日光・奥州街道と壬生通が分かれるところだった。松尾芭蕉は栃木市の「室の八島」を詣でるため、この道を左折して壬生通りに入った。

 現在道は三叉路になり、左は壬生通、まっすぐの大きな道が国道4号線、その右側に細い日光道中が残っている。もちろんここを進む。

喜沢一里塚

 西の塚を残して、日光道中分間延絵図では榎が書かれている。江戸日本橋より21里目。

新田宿

 新田宿は日光街道で一番小さな宿場であったが、日光山、赤城山、大平山の眺望が最も良いと言われた。現在は本陣跡などを残すのみであが、新しい街並みの中にも「昔はここに代官陣屋跡があった」等の案内板や昔の屋号の建物は豊富。

橿原神社

 かしはら神社。明治39年(1906)、東北線の蒸気機関車の飛び火で社殿が焼失した。

新田宿出口の古道の道標

 寛政12年(1800)の馬頭観世音、宝暦2年(1752)の六十六部供養塔があり、鹿沼の石裂山や下野市の国分寺への道標となっている。

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