徳川家康の遺骸 02

徳川家康の遺骸 01
徳川家康の遺骸 02
徳川家康の遺骸 03

東照大権現

家康の遷座式

さて、前回では「家康の遺言」と、久能山への埋葬のことまで調べた。

  1. 遺体は久能山(静岡県静岡市)に埋葬すること。
  2. 葬儀は江戸の増上寺(東京都港区)で行う。
  3. 位牌は大樹寺(愛知県岡崎市)に立てること。
  4. 一周忌の後、日光(栃木県日光市)に小さな堂をたてて勧請すること。

 遺体は死後その日のうちに久能山に移された。当日は雨で、何も事情を知らない担ぎ手と、本多正純や天海が霊柩に付き従った。遷座式は吉田神道(唯一神道)の形式で、梵舜がすべてを取り仕切って埋葬された。

 久能山への埋葬の3日後、駿府城に於いて崇伝や天海らは、秀忠に遷座式が無事に終了したことを報告した。しかし、その席上で行われたいわゆる神号論争の様子が寛永寺の両大師日記に残っている。
 秀忠は吉田神道によって「久能山に大明神造りの社殿」を建立するように命じたが、これに天海が異論を唱えた。
 天海はその場で、「大御所様(家康)は吉田神道によって祭祀されるのは本望ではなく、実は天台宗に伝わる山王一実神道さんのういちじつしんとうで祀られるのが望みであった」と言い出した。
 山王神道とは、天台宗の総本山である比叡山延暦寺で生まれた神道の流派であるが、山王一実神道とは、天海が山王神道を発展させ、天海自らが唱え始めた教義であった。いわゆる「新興宗教」のようなものである。

 「家康の遺言」を天海と一緒に聞いていた本多正純や金地院崇伝は非常に驚いた。
 崇伝は、当時神道の本流であった吉田神道の形式で梵舜が行った遷座式は「大御所様(家康)の本意に違わない」と主張したが、天海は「早々に滅亡した豊臣秀吉を祀る豊国大明神と同じような、不吉な形式での葬儀を大御所様がわざわざ指示するはずはない」と返した。

 正純は激怒し、天海の襟首をつかんで「哀傷のこの場での南光坊(天海)の勝手な振る舞いは許しがたく、直ちに遠島に流すべきだ」と詰め寄り、天海はその場から退席させられている。

天海の策略

 しかし、天海はその後島流しにされるどころか半月後の4月中旬、江戸城に呼ばれ、崇伝との神号論争の主張をもう一度尋ねられている。幕府の重鎮達の前で、天海は「豊臣家の様子を見ろ。徳川家もあのようになってよいのか」という趣旨のことを言い放ったとされる。
 天海は天台宗の僧であり、陰陽道や風水、占星術を駆使し江戸の都市設計にも多大の影響力を発揮していた。家康が天下を取るために、天海は占星術等で敵との相性を探ったり、相手方の運気が悪いときに攻撃を仕掛けさせるなどもした。
 天海によって江戸の寺社仏閣の配置は決められ、江戸の町に宗教的な結界が幾重にも張り巡らされた陣形を作り、魔物の進入から江戸を防御していたと言われ、家康からは絶大な支持を得ていた宗教家である。
 現代よりも、はるかにこういった「占い」や「呪術」的な要素が重視されていた時代である。天海のこの一言で、神号は天海の推す「大権現」へと事実上決定した。4月の下旬、秀忠は再度天海を江戸城に招き、大権現の決定と、上洛して朝廷に神号の勅許ちょっきょを願い出るよう命じた。

 元和2年(1616)6月、天海は自ら上洛し、朝廷に赴いた。しかし朝廷は、天台宗に伝わる山王神道は知っていても「山王一実神道」なるものは聞いたことがなくどういった教義なのかも知らなかったので、4ヶ月あまりも苦慮して「東照大権現」の神号をひねり出した。
 そして元和3年(1617)3月、日光東照社が5ヶ月あまりの工期で完成した。当初は本殿・拝殿・本地堂・御厩舎などのみの質素なものであった。

 一周忌の元和3年(1617)3月の中旬、本多正純、天海、土井利勝らは久能山に登った。天海は自ら鋤鍬を持ち、改葬の命令を下した。天海は絶頂の時を迎えた。

続く。

日光の三猿

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