日光街道を歩く13 第10日目(最終日)

今市宿ー鉢石宿ー山内

2019.04:09
自宅ー日光山内
距離12.17 km 時間3:39:34 高度上昇284m

今市宿

 今市宿は日光街道・例幣使街道・会津西街道の追分を控え、1と6のつく日に「六斎市」が立ち大いに賑わった。慶応4年(1868)、戊辰戦では両軍の放った焼き討ちの兵火に見舞われ、宿の大半は灰燼に帰してしまった。

二宮神社

 二宮尊徳(安政3年1856年没、享年70歳)を奉り、また尊徳の墓所もある。諱(いみな)の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読み方が現代では一般的である。

 神社設立に向けて幾度かの嘆願がみのり、1897年に創設。主祭神は二宮尊徳命。裏手には墓所があり、当初は遺言により遺体を入れた甕壷に土を盛るという簡素なものであったが、安政5年(1858)に墓碑が完成している。

 墓の横には報徳文庫があり、日光仕法におけるおける様々な貴重な資料が保管されている。

玄樹院

 玄樹院は俗に下寺と呼ばれ、現在は如来寺の管理下にあるが、昔は仏頂山玄樹院大乗寺と称し、宿場町の頃には主に今市下町(現在の小倉町)の人々の墓所となっていた。

 入り口には、弘治3年(1557)年作で旧今市村最古とされる首の欠けた地蔵尊「蔵助地蔵」がある。首の欠けた地蔵であったが、令和の近年になって新しく首がつけられた。蔵助地蔵は法界定印を結んでいる。これは日光、今市では馴染みのある型であるが、他所ではめったに見られない。

如来寺

 星顕山せいけんざん光明院こうみょういん如来寺。浄土宗で本尊は阿弥陀如来。文明年間(1469-1487)に金蓮社暁譽最勝大和尚こんれんじゃぎょうよさいしょうだいかしょうにより開かれた。

安政3年に二宮尊徳が亡くなったときには如来寺で葬儀が行われた。

 寛永9年(1632)の東照宮造営の際、家光はここに御殿を建てて滞在した。聖観世音菩薩(下野三十三観音 第4番札所)、木造地蔵菩薩立像(車止め地蔵)、家光日光社参の際の山椒柱、化け桜など、たくさんの見どころもある。

道路元標

 1919年(大正8年)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていた。さらに、1922年(大正11年)に、道路元標の形状、規格、材料など細目が規定された内務省令が発布され、当時1万2000以上あった各市町村の自治体中心部に設置が始められた。

 大正時代に設置された道路元標の大きさは、縦横25センチメートル、高さ約63センチメートルの直方体で、一般に頂部が弧を描くように丸く削られた形状をしており、今市町道路元標もこれにあたる。

日光街道と会津西街道の交点に設置されている。

尚、県内に残存する道路元標は40数基のみである。

瀧尾神社

 天応2年(782)の創建で、今市の総鎮守。日光市指定文化財「今市瀧尾神社石造明神鳥居」がある。
 これは旧瀧尾権現社の鳥居で、製作年代については鳥居そのものの表面がかなり風化しているために、刻銘が判読できず特定できない。しかし、日光二荒山神社との関連などから約400~500年前と推定される。「二の鳥居」の棟高400cm、柱間410cm。「三の鳥居」の棟高280cm、柱間235cm。鳥居の形式は、明神鳥居の典型的なもの。また、鳥居上部の「貫」の上下端の欠込面は類例を見ない。石材は地元大谷川から採取したものと思われる。

月蔵寺

 天台宗で、本尊は阿弥陀三尊仏。江戸時代には彦根藩の休泊所となり、大老井伊直弼も3度宿泊している。井伊家の家紋「丸に橘」の家紋がついた衣装箱や、円空仏などが保管されている。

 明治の初期には北和泉尋常小学校が設立された。

日光杉並木

 日光杉並木は、日光街道・日光例幣使街道・会津西街道のうち、旧日光神領内にあたる大沢 – 日光間16.52km、小倉 – 今市間13.17km、大桑 – 今市間5.72kmの3区間の両側に杉が植栽された並木道の総称である。総延長は35.41kmに渡り、世界最長の並木道としてギネス世界記録に登録されている。

 周辺の開発によって旧態を失った箇所もあるものの、植樹から400年近く経った現在でも約12,500本のスギが生い茂り、寄進碑や一里塚も現存するなど江戸時代の街道の景観をよく伝えている。歴史的にも植物学的にも特に重要とされ、日光杉並木街道 附 並木寄進碑(にっこうすぎなみきかいどう つけたり なみききしんひ)として、日本で唯一、国の特別史跡および特別天然記念物の二重指定を受けている。

瀬川の一里塚

写真にある「瀬川一里塚の案内板」は、現在はない。

 日本橋から34番目で、日光街道最後の一里塚である。右塚は三つ又杉。以前は案内板が立っていたが、最近損壊してしまった。

 ちなみに本来は、これより先の野口村の竜蔵寺跡を右折し、大谷川沿いを進んで七里村の筋違橋までを進む道があったのだが(日光古道と呼ばれる)、度重なる水害により現在の道となった経緯がある。この古道にはおそらく35番目の「七里一里塚」があったはずと考えられている。

砲弾打ち込み杉

 戊辰戦争時、大鳥圭介率いる幕軍と谷干城率いる官軍の激突で、官軍の放った弾が杉並木にあたった跡が、砲弾打ち込み杉として残っている。
 ここより100mほど西の野口十文字には、幕府軍の掘った塹壕の跡がある。なるほどその塹壕からは、今市から進軍してくる新政府軍が丸見えになる。
 このあたりの杉からは鉄砲の弾もよくみつかるが、 杉を射抜いた砲弾は土佐藩の谷干城が指揮する北村長兵衛が使用した4ポンド山砲で、射程距離2600mの大砲だと言われる。樹木の打ち込まれた穴より、打ち抜かれた穴のほうが大きくなっている。

竜蔵寺薬師堂

 竜蔵寺跡の薬師堂と道祖神がある。

 大きな石の釣鐘が地面においてあるが、これは奉納されたとき竜頭が壊れたため放置されたという説と、野口は火事が多かったので、二度と火事を告げる鐘をたたくことのないように石の鐘を作ったという説がある。
 また、堂の側面には、18~19世紀の念仏供養塔が並ぶ。
 近年、堂内で寛文6年(1666)作の仏聖円空の閻魔王座像が発見された。

 このすぐ先に右手に折れて東武鉄道の線路をくぐる道があるが、これが日光古道である。

江ノ久保刑場への道

 この道は大谷川対岸の、処刑された人々の供養の享保13 年(1728)建立の六地蔵、首切り地蔵、日光奉行所「江ノ久保刑場」へ行くことができた。脇にある石の経塔には、「南無妙法蓮華経 天下泰平」と刻まれている。

 日光奉行所のお白州で裁きを受けた罪人は七里村の牢屋(現在のJR日光駅近辺)に入れられた。重罪人はみせしめに市中引き回され、この小道を通って大谷川を渡り対岸の所野にある江ノ久保処刑場に引かれていった。

 罪人は、首切り地蔵尊の前で役人より罪状、刑量を申し渡され打ち首となった。胴体は川に投げ捨てられた。首は道端の曝台に並べられ7日間程放置された後、縁者に渡された。縁者がいない場合、残された首は地蔵尊の台座の下に投げ込まれた。その台座は5層あり、現在でも相当数の頭蓋骨があるという。 現在はゴルフ場や川があり道は寸断されている。

尾立岩

 「昔、日光の慈眼太郎大明神が宇都宮に遷る時に、十丈ほどの蛇となってこの岩の上に乗り、尾を立て東を指して走った」という言い伝えがある。岩山の下から流れている明神川は、蛇躰となった日光の神が通った跡であるという。郡主は奇異の思いにうたれ、一宇の社を築き大明神として崇めたという。

 岩の下の方には元禄14年(1701)のお地蔵様、如意輪観音、寛政12年(1800)の自然石の庚申塔、宝永4年(1701)の聖観音などの石碑・石仏がある。

明治天皇小休止所

 明治9年(1876)、明治天皇は産業、教育、民情などを視察するため東北巡幸をされたが、その時の小休所跡(手塚源蔵氏宅)である。

 この先の鉢石宿は道に階段があったため、天皇はここで馬車から馬に乗り換えた。「御聖蹟(ごせいせき)」は、昭和18年(1943)旧文部省建立の立て札をみることができる。

 また、玄関前にある杉の巨木の伐採痕は、「大砲止め杉の伐痕」と呼ばれる。元治元年(1864)水戸天狗党200余名が筑波山より日光山へ向け進軍を開始し、今市宿に留まり東照宮に参拝する旨を日光奉行書に届け出た。しかし参拝を許されたのは数名のみだったため、道天狗党は持参した大砲とともに強行突破を図るという噂が流れた。そのため奉行所は大きな老杉を倒して街道を塞ぐという措置をとったあとである。

鉢石宿

 鉢石宿はついしじゅくは江戸を起点とする日光街道の最終の宿場である。東武日光駅のあたりから杉並木が途切れ鉢石宿となる。宿内には、手前から松原町・石屋町・御幸町・下鉢石町・中鉢石町・上鉢石町と、江戸時代の町名が今も残り、これらの町を通り過ぎると、日光街道の最終地点、神橋に至る。神橋の向こうは、奈良時代、勝道上人による開山以来の生地、日光山である。

観音寺

 創建は奈良時代820年、空海が千手観音像を祀ったとの云われがある古刹。山門の右手側に観世音道という石段の参道があり、奥の院・千手観音堂がある。

 松尾芭蕉が元禄2年(1689)4月1日に泊まった宿の主人、仏五左衛門(ほとけござえもん)の名が過去帳に記されている。翌2日、芭蕉一行は五左衛門の案内で七里からの古道を経て大田原へ抜けていった。戊辰戦争戦死者の墓がある。

興雲律院

 天台宗の寺で、享保14年(1729)の創建である。比叡山、東叡山、日光山の3箇所に創建された本山格の修練道場で、「参拝者以外の見物お断り」と鐘楼前に掲げた厳格な寺である。
 本堂には「血染めの天井」伝説がある。徳川が大阪城で徹底的に豊臣氏を滅ぼしたことを気に病んでいた輪王寺宮公寛法親王は、せめてもの気休めとして、寺を建て豊臣家の菩提を弔いたいと申し出、大阪城で豊臣の兵が血だらけの足で駆け回った床板があったので、それを取り寄せ、本堂の天井にしたというもの。

 1月14日には年越大祭が行われ、結界が張られた境内で、僧侶や修験者たちが大きな声でお経や真言を唱えるさまは圧巻である。

天海像

 天海大僧正(慈眼大師)とは 徳川家康、秀忠、 家光の3将軍に仕え、日光山第53世貫主を務めた天台宗の僧である。100歳以上生きた、実は明智光秀である(1.天海が名付けたとされるいろは坂の「明智平」。2.東照宮内に明智家家紋の桔梗紋を付けた武人像がある。3.秀忠・家光は明智光秀の一文字をとって名付けられた)など、出自の曖昧さもあり幾多の伝説がある。
 銅像は彫刻家・倉沢実氏作。

神橋

 二荒山神社の建造物で、日光山内の入り口にかかる木造朱塗りの橋。世界遺産にも登録されている。

 奈良時代の末に勝道上人が日光山を開くとき、大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めた際、深沙王(じんじゃおう)が現れ2匹の蛇を放ち、その背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説を持つ神聖な橋。別名、山菅橋や山菅の蛇橋(じゃばし)とも呼ばれている。橋の両岸には大同4年(809)日光最古の社である星の宮、深沙大王を祀る深沙王道、霊域であるのですべての人を乗り物から降ろした下乗石なども残っている。

 現在のような朱塗りの橋になったのは寛永13年(1636)の東照宮の大造替のとき。明治35年(1902)にその橋は洪水で流されてしまったが、明治37年(1904)に再建され、日本三大奇橋の1つに数えられている。

 昭和の初めに日光駅からいろは坂の馬返を結んでいた路面電車「東武日光軌道線」は、電車ゆえきついカーブは曲がれないため、神橋の柱と擬宝珠を一つ外して線路を敷いた。神橋の下を流れる大谷川に、今もその礎石を見ることができる。外した擬宝珠は二荒山神社の宝物館にある。

 そして、目の前には日光山がそびえている。

世界遺産「日光の社寺」

 「日光の社寺(にっこうのしゃじ)」は、日光街道の長い旅路の終着点であり、栃木県日光市にある寺社などから構成されるユネスコの世界遺産である。これらは主に日光東照宮、日光山輪王寺・大猷院、日光二荒山神社などから構成される。

 神仏混淆の名残が色濃く見られ、例えば神社である日光東照宮に薬師堂、五重塔がある。明治の新体制下では、徳川家康の神霊を祀る東照宮の扱いが一つの焦点となった。王政復古の宣言を受け「神道の国教化」を進めた新政府は「神仏分離令」を布告し、日光山内とてそれは免れなかった。日本史上の一大汚点である廃仏毀釈運動が起こり、日本各地で貴重な仏像が破壊され、経典が火にくべられるなどの文化遺産破壊の憂き目にあった。

 明治3年(1870)、日光県は日光山の神仏分離方針を新政府に上申し、日光二荒山神社、東照宮、満願寺(後の輪王寺)に分離させる考えを示した。翌年から二荒山神社域内の三仏堂が解体され、移転準備がなされた。

 また、大久保利通は勝海舟に、「家康の廟を日光か久能山のどちらか一つに決めてくれ」と迫った。勝は「朝廷でどちらでも勝手に一つお潰しなさい。ただ、みっともよい話ではありますまい」と返し、その結果、日光も久能山を廃絶を免れた。

 東北巡幸で日光を訪れた明治天皇に命がけの直訴をした落合源七と巴快寛は「千年来、神仏の融合した歴史を持つ日光山で神仏分離を実施すると、堂舎が破壊され美観が損なわれます」と訴えた。

 明治天皇に同行した木戸孝允は、宿泊先の満願寺で三仏堂が解体され野積みになっているのを目の当たりにし、「神仏分離令なるものは文化破壊の結果を伴うに過ぎない愚挙だった」と語った。明治天皇は巡幸のあと、「旧観を失わざれ」との詔と下賜金3,000円を下されたという。

 戊辰戦争で明治新政府に徹底抗戦した会津藩の元藩主、松平容保(かたもり)は明治13年(1880)、日光東照宮の宮司に就任する。戊辰戦争の最後まで将軍家に忠義を尽くした容保は敗戦後に謹慎し隠遁生活を送り、表舞台への一切の要請を固辞し続けたが、徳川家との繋がりを再生できる宮司就任要請を非常に喜び受諾した。幕府の後ろ盾や保護がなくなったため荒廃し、朽ち始めた日光を見て、容保は心を痛めた。容保は自らのネットワークを使い奔走し、日光の社寺の修繕・保存を目的とした「保晃会」を創設し、初代会長に就いた。日光山内にある高さ6mあまりの巨大な石碑「保晃会碑」の碑文は勝海舟の筆によるものである。

 たくさんの人々が利害を超えて団結し、日光の宝物は世界遺産となった。地球の生成と人類の歴史によって生み出され、過去から現在へと引き継がれてきたかけがえのない宝物。現在を生きる我々が、過去から引継ぎ、未来へと伝えていかなければならない人類共通の遺産である。

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