宇都宮の水(今市と宇都宮の水道の歴史 1)

 日光市立今市小学校と滝尾神社の裏手に、「今市浄水場」がある。2023年4月現在ではコロナ禍のために開放されていないが、中には広々とした貯水槽と古い建物を利用した水道資料館がある。
 これは実は「宇都宮市の上下水道局」が管理運営しており、正式名称を「宇都宮市上下水道局今市浄水場」と言い、主に宇都宮市の北西部に浄水を配水している施設である。
 今回は、大正時代に今市から配水されはじめた「宇都宮の水道」について調べてみた。

江戸時代・明治・大正期の宇都宮の水事情

宇都宮の水

 宇都宮市は西の今市・大谷方面から東方面に向けて緩やかに傾斜している地形で、江戸から明治の頃、北部の二荒山神社ふたあらやまじんじゃと南部の宇都宮城址を中心線として西を上町、東を下町と呼んだ。当時は明治22年(1889)に施行される町制以前の話なので、今市を例にあげれば「今市宿・平ケ崎村・瀬川村…」と呼んだように、宇都宮もまだ「宇都宮町」になる以前であり、宇都宮中心部も宇都宮県の「曲師町・馬場町・池上町…」と呼んでいた時代である。
 古来宇都宮は大小の沼地が存在し、水資源が豊富な場所だった。「宇都宮の七水しちすい」と言われる清水の名所もあったほどで、井戸を掘ればどこからでも水が湧いたという。だが宇都宮はその土地の成り立ちが「大小の沼」の埋立地だったということで、底湿地のために水は湧いたとしても水質は非常に悪く、特に下町では赤土を溶かし込んだかのような真っ赤な泥水しか出なかった。もともと粘土質の土壌で水の循環が不十分な上、加えて便所やうまやから糞便が流れ込み、アンモニア等の有機物を含んだ現代の感覚で言えば「下水」そのものの水が湧いた。だからこそ、「宇都宮の七水しちすい」と呼ばれる飲用に適した清水が非常に重宝されたのだろう。

宇都宮の七水

 宇都宮の七水を挙げてみる。

  1. 亀井の水
    亀井の水は宇都宮市下川原の常念寺の前にある。現在もコンクリートで固められた小さな池があるが水路が塞がれてしまっているため、水道水が流れている。
  2. 明神の井
    明神の井は二荒山神社ふたあらやまじんじゃの境内にある。井戸は現在は蓋で覆われているが、蛇口をひねると龍の口から井戸水がでる。水質検査は行われているが、飲用には煮沸をするようにと注意されている。
  3. 天女水
    宇都宮市塙田の慈光寺の境内にある。自然環境保護のために柵がされており、近くに立ち寄ることはできない。
  4. 滝の井
    滝の井は宇都宮市の滝谷町交差点のすぐ北東側にある滝尾神社の境内にあった。現在は人口の小さな池がある。
  5. 池の井
    池の井は宇都宮市江野町にあった。昔はここに宇都宮城の大手門があり、その脇に池の井があったと言われているが、城下町整備のときに埋められたと考えられている。
  6. 馬場の井
    馬場の井は宇都宮二荒山神社の正面にあるバンバ通りにあった。しかし大正5年の水道敷設の際に埋められてしまい、その名残は微塵もない。
  7. 東石町ひがしこくちょうの井
    「東石町」は江戸時代の初期の地名であり、文献も少ないために正確な場所は特定できていない。現在、宇都宮市二番町と三番町のあたりに「石町」「元石町」という地名が残るが、このあたりに湧いていた水ではないかと考えられる。

 このように、宇都宮の市街地にはいくつかきれいな水があったが、これ以外は飲用に適した水はごく僅かであった。

伝染病

 前述の通り、宇都宮は一部飲用に適した水はあったが殆どは汚染された水であり、そのため宇都宮では「水屋」なる職業があった。

 水屋の起源は明治14年(1881)8月2日、明治天皇が東北巡幸で宇都宮の「向明館」に宿泊した折に御料水ごりょうすいとして宇都宮市中河原町の鳥居小八郎宅の井戸水を用いたことに始まるという。水屋は明治・大正年間にかけて宇都宮の特に下町に水を供給する役割を担い、手押し車に水槽を積み販売する形態を取った。


明治天皇の宿泊所「向明館」と鈴木久右衛門

 鉄砲町(旧馬場通り2丁目)にあるこの一角は、明治天皇の東北巡幸の際、宇都宮の行在所(あんざいしょ。行幸の際に設けた仮宮)になった所である。この向明館は江戸時代の豪商、鈴木(津山)久右衛門の邸宅で、明治9年(1876)6月に明治天皇が宇都宮城址での練兵を天覧されたおり、ここが行在所に選ばれたというものである。明治天皇はここの日本庭園を随分と気に入られたと伝わるが、写真の通り今はその面影はない。向明館は昭和8年(1933)11月に国の史蹟に指定され、市が入口に御影石の標識柱を建て管理していたが、昭和20年(1945)7月12日の宇都宮空襲で焼失し、翌年に指定が解除さたことによる。向明館は明治14年(1881)の東京鎮台・仙台鎮台合同大演習の際にも行在所となった。

宇都宮オリオン通りの一角にある「向明館」跡。史跡 行在所向明館跡
宇都宮オリオン通りの一角にある「向明館」跡。史跡 行在所向明館跡
向明館跡の公園。
向明館跡の公園。

 それでも宇都宮は時折、コレラ、腸チフス、赤痢、ジフテリアなどの伝染病が蔓延した。これらは飲料水に深く関係がある伝染病であり、当時の下野新聞や栃木新聞でも水に対する注意を喚起する記事や論説が頻繁に出てくる。

 言うまでもなく、宇都宮の住民にとって安全に飲用できる水の確保は重大で、かつ苦労を強いられるものであった。

有志の声

 宇都宮の最初の水道敷設計画は明治11年(1878)2月のことだった。馬場町の歌人であり宇都宮二荒山神社の神官であった中里千族を中心とするメンバーによって纏められた「水道敷設方法書」が下町の戸長に提出された。しかしこれは時期尚早との理由であえなく却下となった。

 これを皮切りに大小何度かにわたる水道敷設計画が持ち上がったが、いずれも金銭的な問題、あるいは取水地の周辺地域の反対や水量不足、水質の不安などにより、実現の目を見なかった。

 その頃前後して、宇都宮県は栃木県と合併し(明治6年)、県庁所在地となり(明治17年)、東京からの鉄道が宇都宮に達し(明治18年)、町村制が敷かれ宇都宮町(明治22年)となり、ついで市制施行により宇都宮市となる(明治29年)など、宇都宮は大きく変貌を遂げる激動の時代であった。

 「都市」となる宇都宮にとって、水道敷設は急務となった。

つづく。

コメント

タイトルとURLをコピーしました