宇都宮の水道敷設計画 (今市と宇都宮の水道の歴史 2)

 前回の投稿では、明治期の宇都宮の飲水の状態と水道敷設への機運の高まりについて書いた。
 今回は、いよいよ本格的に始動する水道敷設計画について調べてみよう。

水道敷設計画

紆余曲折の水道計画

 明治40年(1907)に4万4千人程度の人口であった宇都宮市は、翌年には日露戦争中の師団増設で第十四師団の約8千人を抱えていた。ただでさえ飲料水が不足していることに加え、宇都宮市は今後十年間で師団増員と煙草製造所の従業員家族の増加で人口がおよそ倍の8万人に膨れ上がると予想し、事ここに水道敷設計画は急務と住民の意識は高まってきたわけだが、それでも水道敷設計画は一筋縄ではいかなかった。水道管を敷設する極めて多額の工事費用の捻出には国庫や県費の補助が必要だったがその裁可の目処も立たず、宇都宮が受け持つ多額の債費に住民生活が耐えきれるのかなども話題になり、水道敷設反対運動なども起こった。

 それでも水道推進派は進捗を続け、明治42年(1909)6月、宇都宮市議会は今市浄水場計画を議決した。これは水源を中禅寺湖とし、大谷川から分水する今市用水より分岐して引き入れ、上都賀郡今市町大字瀬川1334-1に新設する浄水場に入り、日光街道の地中を下って戸祭の戸祭山まで配水するという計画だった。

 大谷川にはいくつかの灌漑用の取水堰が存在したが、今回の計画では今市用水の取水口から水を得るということで、大谷川下流域の村々が干ばつや渇水時に不安を残すということが考慮されたため、宇都宮市は中禅寺湖の低位に取水口を設け隧道(トンネル)を華厳の滝まで通し、渇水時には湖水を華厳の滝に落とし込むという設計も行った。

 ここに宇都宮の水道の計画はまとまった。明治11年(1878)の最初の敷設計画から数えて34年の月日が経過していた。

 もちろん、宇都宮の意向だけで大谷川から勝手に工事や取水を行うわけにはいかず、県知事や国の仲立ちを得ながら、日光町、今市町、下流域の河内郡豊岡村、大沢村、篠井村との交渉が行われた。

今市町との協議

 まずは今市町との協議を見てみよう。
 遡ること明治42年(1909)7月31日、宇都宮市長・本多鐐吉(ほんだりょうきち)と水道調査委員の大村仙助は今市町を訪れ渡邊佐平町長に面会し、宇都宮の水道計画、すなわち今市用水の使用と浄水場設置の希望を申し入れた。
 翌日の8月1日、町長と安西貞治助役は高橋弥次平、高野留吉、上澤慎一郎、小野新三久、沼尾源治郎ら町議会の土木委員会を招集し、午前10時に再度来庁した宇都宮市長と大村委員から詳しい概要の説明を受けた。

 同年8月10日、宇都宮市長と大村委員、吉原重長技師は今市町役場を訪れ、今市町は招集された21名の町会議員が立ち会い、宇都宮の水道計画の細部の説明を受けた。席上、今市町からは要望として、八つの条件が出された。これは例によって難しい文で書かれているので要約すると、

  1. 今市町の用水が不足しないように十分な工事を行うこと。
  2. 中禅寺湖隧道と補充水の工事は完全に行うこと。
  3. 取水口の堰や鉄管などの修繕費用は将来に渡ってすべて宇都宮が負担すること。
  4. 用水使用権を認めても、今市町の用水が不足した場合にはいつでも引入口を閉鎖すること。
  5. 今市町の中央市街地地下に配管される水道鉄管に消火栓を設け、火災の際には使用する許可がほしい。
  6. 大谷川下流域の関係町村には宇都宮市側が示談を行うこと。
  7. 引入口の工事は水害の憂いがないように完全に行うこと。
  8. 湖水隧道補充水の設計以下、水道に関する設計書と地図は誓約書とともに添付すること。

との内容であった。宇都宮側はこれらの条件を持ち帰り、検討することを約束した。

内容を見ると、今市町側の条件は比較的理解できるものであり、今市町は宇都宮水道に対し容認の姿勢を持っていたことが伺える。だがここまで来ても尚、宇都宮市と今市町の契約の締結はそれから4年もの月日を費やすこととなる。

四年間の空白。市民の反対と補助金申請の難航

 このタイムラグの原因は主に宇都宮市民の反対と補助金申請の難航が挙げられる。
 明治42年(1909)6月22日、宇都宮市は内務大臣の平田東助に水道敷設の申請を行い、同時に平田と大蔵大臣の桂太郎に工費125万円の四分の一に当たる31万2千円の国庫補助金の下付を申請した。翌日23日には陸軍に対し宇都宮に展開する陸軍第十四師団の兵営まで給水する旨を伝え、特別補助金15万円を求めた。更には9月25日には栃木県に対して工費の5分の1に当たる25万円の県費の補助を申請した。
 しかし、このように宇都宮市当局の国、県、軍部に対する補助金申請が多忙を極めている最中、宇都宮市民の間から再び水道敷設延期論が巻起こった。これは「市民は水道敷設の事業に対する歳費等の負担に耐えられず生活は困窮する、よってまずは減税などで市民の財力を充実させる方が先決である」との内容であった。
 この運動は翌年にかけてますます活発化し、明治43年(1910)6月10日には宇都宮市民3,745名の連名により市長、県知事、内務大臣宛に七ヶ年の「水道敷設延期願」が提出された。

 更に一方で、補助金の申請をされた国は財政上の余裕がないために難色を示し、また県は「政府の認可があった後でも遅くない」と決定を先延ばしにし、陸軍からは「兵営の給水は独自に設置する」との回答があり、まさに財政的に八方塞がりに陥った。

 宇都宮当局は当初明治43年(1910)の着工を目指していたが予定は困難となり、先に市議会で決定していた水道敷設案を修正し、一年先延ばしにした上に補助金額を減額し、再度各方面への働きかけを行った。しかし、こうした申請や陳情に関わらず、補助金下付は認可されず、水道敷設願も不認可となった。

 転機が訪れたのは明治45年(1912、大正元年)の頃である。 明治44年(1911)頃、水道敷設延期派から鑿泉(さくせん)案が出された。これは簡単にいうと井戸堀のことで、今市から長い距離に渡って水を引いてくるよりは、鑿泉案のほうが経済的、衛生的にも有利だという内容で、進言書という形で宇都宮市長に提出された。これまで敷設の許可も補助金の認可も下りずにいたところ、六月に市議会が招集され、水道敷設の件(変更)、鑿泉式の水道調査が盛り込まれた建議案が可決された。この頃になると水道敷設に賛成する民意の高まりも見られ、宇都宮市は再度敷設許可と国庫補助、軍への特別補助を申請し、鑿泉式の水道に対する調査も進めた。鑿泉式についての調査結果は、水の量が不十分であり、また掘削してみた結果でしか水質が判断できないことなどから、宇都宮市にとっては不適当であるという結論となった。ここでやはり水道敷設には今までの案が最良であるとの結論を得た。
 翌年大正元年(1912)になると、ようやく補助金問題に明るい兆しが見えた。内務大臣の原敬から水道敷設が認可され、国庫補助が認められた。県費補助は岡田文次栃木県知事より提案され、県議会での採決の結果、26対3の賛成多数で決議した。下野新聞には「26名の起立によって宇都宮市の長年の宿題であった水道事業に対する県費補助22万円が確定した。傍聴席の宇都宮水道関係者は一斉に拍手で歓迎した」(大正元年12月9日「下野新聞」)ことが記されている。
 ちなみに陸軍省からの補助金は最後まで下付されなかった。

再度、今市町との協議

 あくる年の大正2年(1913)3月18日、たまにポツポツと会談しても何の進展もなく、もしくは欠席者も多く、ほぼ中断されていたと言ってもいい宇都宮市と今市町の用水に関する会議が再開された。

 複数回に渡り行われた会議では、以前に今市町側から出された要望の「(4)用水が不足した場合にはいつでも引入口を閉鎖する」の表現が不穏当なので修正すること、「(5)水道鉄管に消火栓を設け、火災の際には使用する許可」は不可能なので再考することが挙げられた。

 今市町からは「今市町を宇都宮市水道の給水区域に組入れ、消火栓と共有栓を設置し、無料で使わせてほしい」との打診があった。宇都宮市側が「無償では不可能である」と伝えると、今市町は「では有料給水でも可」と返答した。宇都宮がそれを受け工費を試算してみると約9,500円となり、有料給水であればそれらを償還できる財源を有していたため、応諾する旨を回答した。

 しかし今度は今市町側の議会の意見がまとまらず、今市町は有料給水云々の話は一旦無しにして、一万円の報奨金を求めてきた。この原因は定かではないが、やはり当時の今市町の行財政力では水道を維持し続けることは困難であり、「井戸があるからいいじゃないか」との結論に達したのかもしれない。

 宇都宮市は予算が無く拒絶したが、今市町からの再三の要求により5千円の支出を今市側に打診した。

 その後の協議は概ね好調に終わり、大正2年(1913)5月17日「用水使用に関する計画」が仮締結された。これによると宇都宮市は上水道に要する水量を「口径十八インチ」の水管で永久に使用できる内容であり、これは今市用水の水量の10分の1程度であった。報奨金は双方の額の間を取って7,500円と決着した。今市町の使途としては今市町教育基金に2,500円、今市町大字今市、瀬川、吉沢、瀬尾、土沢、室瀬、千本木、平ケ崎の各大字に残りの5千円を分配した。当時この七千五百円という金額は、今市町の歳出額の70%に相当する金額だった。

 同年8月19日、本契約が交わされた。内容は先程の文とほぼ同一なので省略する。

豊岡村、大沢村、篠井村との協議

 同じ頃の明治45年(1912)2月、今市町と宇都宮の水道の計画が近く締結されることを知った豊岡村、大沢村、篠井村の三ケ村は、大谷川の上流で行われる取水によって下流側の流水量が減ることを危惧し、委員を選定し宇都宮市との交渉にあたった。

 三ヶ村が最初に宇都宮に提示した条件は以下のようなものである。

  • 現設計から将来、引水量を増加させないこと。
  • 渇水時の補給口である中禅寺湖の工事を先に完成させること。
  • 中禅寺湖の工事が計画のような効果を発揮しない際は水道敷設を中止すること。
  • 三ヶ村が必要としたときには中禅寺湖の水門を自由に開放する権利を与えること。
  • 以上の規約に背いたとき、または現設計以外の工事を行い村民に損害を与えた際は宇都宮市が賠償すること。

 明治45年(1912)2月8日、三ヶ村の委員たちは宇都宮市役所に赴き、ちょうど市議会を開催していた助役や大村水道委員と会見した。宇都宮市側はこの案についてしっかりと協議することを約束し、それを受けた三ヶ村の委員たちは、その足で県庁に赴き同文の陳情書を提出し、市と三ヶ村の協議が締結しなかった際には水道敷設の許可をしないように陳情して帰村した。

 しかしその後も宇都宮市と三ヶ村の協議は容易にまとまらなかった。これは宇都宮市としては、すでに三ヶ村の上流にあたる今市用水の水利権を得ていたので強気の交渉を行うことができたからだと言われている。

 翌年大正2年(1913)5月17日、今市町と宇都宮市の間で「用水使用に関する契約」が締結されたが、三ヶ村と宇都宮市の間では協議はほとんど進展していなかった。翌日18日、三ヶ村の代表者たちは大沢村字針貝に集まって対応策を協議し、次のような条件で宇都宮市との最終交渉を行うことになった。

(あ)宇都宮市は今市用水より口径十八インチの水管で引き入れ、大谷川の本流には取水口を設けないこと。

(い)宇都宮市は灌漑用水が不足しないように中禅寺湖に補水設備を造ること。

(う)補水設備や取水口が破損したときは宇都宮市が自費で修理し、必要な予防設備を造ること。

(え)宇都宮市は三ヶ村の用水引入堰の営繕費として3,600円を交付すること。

(お)宇都宮市が将来更なる導水管や引入管の増設をする場合は三ヶ村と協議すること。

 (え)の3,600円の営繕費は、最初の頃の要求では「用水路の新設費用として、全工費33,000円の4分の1である8,100円を要求する」案であったが、再三折衝を重ねた末、各村に1,200円つ、合計3,600円でまとまったという経緯がある。このように、三ヶ村の要求は全体的に当初より幾分水準を下げたように見られる。

 三ケ村は、「今市町は下流域にあたる我ら三村と何ら下交渉もせずに勝手に水利権を付与した」と憤っていた。それでも大正2年(1913)5月22日、豊岡村、大沢村、篠井村の水利関係者や用水堰組合の責任者らは不満を残しながらも宇都宮市と「取水設備に関する契約書」を締結した。

日光町との協議

 日本鉄道日光線の宇都宮―日光間が全線開通してからというもの、日光は観光地として不動の地位を築いていた。大谷川の取水とは直接関係ないと思われていた日光は、降って湧いてきた「中禅寺湖隧道工事」を危惧した。主な理由は「隧道工事は危険なのではないか」「湖水の減少によって景観が損なわれるのではないか」ということだった。

 湖水を利用して渇水期に補水する工事に日光町民はこぞって反対し、「隧道を鑿ちて溶岩に加工するは、万一の危険を虞るゝのみならず、湖水面の水量を減ずるのは風致を害すること甚だしきを以って隧道を穿つ設計には絶対に不可なり(大正3年6月14日「下野新聞」)」と決議して委員が宮内省を訪れ陳情した。

 工事着手の寸前になっても日光町民は中禅寺湖周囲の美観を損なうとして工事認可の取り消しを宮内大臣に陳情するなどした。

宇都宮市水道補水水門

 現在も中禅寺湖のほとりに、高さ1mほどの鉄製の柵が六角形に繋がっている建造物がある。これが今なお残る「宇都宮市水道補水水門」である。

 宇都宮水道は前述の通り大谷川から引水される今市用水を利用する計画で、用水はすこぶる豊富な水量を備えていたが、冬季の渇水、夏季の干ばつの際に中禅寺湖の水位が下がると華厳の滝は落水せず、それによって大谷川の水量が大きく減ると引水ができなくなる恐れがあった。そこで湖水の最低水位以下に引水口を設けて引水し、この水門を経て、310mほどの随道(トンネル)に導き、華厳の滝の上部に落水させて補水することとした。

 隧道は大正4年(1915)に完成したが、この補水口は結局のところ、中禅寺湖の水位が極端に下がることが無かったために完成してから「宇都宮市水道補水水門」として利用されたことはない。

 昭和35年(1960)4月に中禅寺湖畔にダムが完成してからは中禅寺歌ヶ浜水位観測所として利用されており、建物の中には当時の水門が今も残っている。

宇都宮市水道補水水門(現・歌ヶ浜水位観測所)
歌ヶ浜にある宇都宮市水道補水水門
宇都宮市水道補水水門(現・歌ヶ浜水位観測所)
大正当時のままの宇都宮市水道補水水門

土地収用法による買収

 その他、水源地の中禅寺湖から日光町、今市町、大沢村、富谷村、国本村を経て宇都宮市まで至る水道用地約40数kmの用地の借用や買収も大きな障害となった。民有地の所収者は買収提案になかなか耳を貸さず、あるいは法外な金額をふっかけた。宇都宮市の当局者は、根気よく水道事業の重要さを説いて回ったが、到底円満な解決は得られなかった。

 これらのことから、現代よりもはるかに「水」というものが貴重な時代で、住民は水が減ってしまうことへの恐れや憤りが強かったことがよく分かる。

 最終的に宇都宮市は「土地収用法」に頼ることとなり、大正2年(1913)6月30日、土地買収の認定を内閣総理大臣・山本権兵衛に申請し、8月6日に許可を得た。土地収用法とは、公共の利益となる事業に必要な土地の買収に関し、公共の利益と私有財産との調整を図ることを目的とする法律である。頑強な一部土地所有者に対しては、土地収用法に基づく土地細目の公告により交渉を重ね、ようやく大正2年12月に用地の買収を完了させた。

 用地買収の完了を待って大正2年(1913)12月6日に国本村大字戸祭字長峰(現・宇都宮市戸祭)の戸祭山で水道起工式と地鎮祭が行われた。通称「水道山」と呼ばれるこの地には「戸祭配水場」が建築され、現在も国の登録有形文化財としてその堂々たる威容を眺めることができる。

戸祭配水場

 その翌日の7日には、今市町大字瀬川の今市浄水場建設予定地で地鎮祭が行われ、今市側からは町長、町議会議員、小学校校長、地主などが多数参列し、地鎮祭後は今市小学校で祝賀会が催された。

 次回は、具体的に今市のどこを通って配水されたのか。
 そして今なお残る水道関係の建物を巡ってみよう。

続く。

 

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