日光街道を歩く07 第4日目

杉戸宿ー幸手宿ー栗橋宿ー中田宿ー古河宿

2019.02.05
東武動物公園駅ー東武新古河駅
距離29.51km 時間7:36:06 高度上昇33m

 4日目は東武動物公園駅から歩き始める。カスリーン台風で甚大な被害を被った幸手、利根川沿いの栗橋を進み、「坂東太郎」利根川の長い橋を越えると茨城県古河市に入る。

杉戸宿

 杉戸宿は元和元年(1615)に付近の家々を集めて宿駅として発足した。利根川の渡しがあり、利根川の改修によりそのたびに国境が変更になった。

 現在、当時の様子を伝えるのは本陣を務めた長瀬清兵衛邸の門のみである。

宝性院

 永禄3年(1560)、幸手城主・一色氏が安産と子供の成長を願って安産不動明王を祀ったのが始まり。宝生院は宿場の発展に貢献し、戸籍の把握や寺子屋教育、旅籠の代わりも行った。

 境内には文化7年(1810)建立の「日光道中」と刻まれた大きな馬頭観音の石碑がある。

日光御成道との合流点

 日光御成街道は中山道本郷追分から川口、鳩ヶ谷、岩槻を経て幸手に至る。将軍の日光社参のために家光によって整備された。

神宮寺

 奥州への藤原泰衡討伐の途上で愛鷹を逃した源頼朝がこの寺で祈願し、無事に鷹が捕まったことから鷹尾山誓願院神宮寺と命名したと伝わる。浄土宗、本尊は阿弥陀如来。

幸手宿

 幸手は日光街道が整備される前から、奥州と鎌倉を結ぶ鎌倉街道中道の要所だった。この道は奥州へ逃れた源義経を追う源頼朝、静御前、西行法師も通っている。そのため物語の年代が非常に幅広くバリエーションに富んでいる。

 そこかしこの電柱に、「カスリーン台風の時はここまで水が来た」という防災意識を高める赤いラインが入っている。僕の胸元くらいか。

聖福寺

 室町時代から続く浄土宗の寺。日光社参の将軍や例幣使の休息所となった。本堂「将軍の間」の欄間は左甚五郎作と伝わる。また、運慶作といわれる阿弥陀像や観音像も祀られている。

正福寺

 真言宗智山派の寺院。境内には天明の大飢饉(1782-1788)の際に、宿の豪商たちが私費を投じて人々を救ったことを称える碑、無縁仏塔、権現堂河岸と日光道を示す道標がある。

 

権現堂堤

 幕府は堤を築き、利根川を鬼怒川と合流させ、銚子へ放出させるなど度々川の流れを人工的に変えたが、ひとたび洪水になると堰や堤が決壊してしまうことも幾度となくあった。享和2年(1802)の春の長雨で権現堂堤は決壊したが、あまりの濁流に修復作業が進まないでいた。そこへ通りがかった順礼母子が、この水神様に人身御供をたてると申し出、自ら人柱となって渦巻く濁流に身を投げた。するとたちまち水流は穏やかになり、工事ができるようになったという。この話に基づいて、堤の上には順礼供養の碑と順礼供養塔の2つの石碑が建てられている。

 僕が行った2月は水仙が可愛らしく咲き誇っていたが、春は1000本余りの桜が咲き乱れる。

外国府間道標

 安永4年(1775)の建立で、「左日光道」「右つくば道」「東かわつま前ばやし」と刻まれている。かわつまとは茨城県五霞村字川妻、前ばやしとは同県総和町前林のこと。

小右衛門一里塚

 江戸から14番目の一里塚で、今でも塚の形態をとどめている。幸手宿と栗橋宿の中間にある。日光道中分間延絵図では榎と思われる木が描かれているが、現在は弁財天堂が建っている。

会津見送り稲荷

 参勤交代の先遣隊となった会津藩兵が、洪水で困っていると白髪の老人が現れ、道案内をしてくれた。後日老人は荼枳尼天の化身ということがわかり、堂宇を建てて祀ったという。

焙烙地蔵

 関所破りが火あぶりの刑に処せられた刑場跡。処刑者たちを供養する地蔵尊がある。堂内に数枚の焙烙が祀られているが、直接火を当てて使う焙烙を奉納するのはそのためである。

深廣寺

 元和元年(1615)開基。境内には2代住職単信上人が20基、9代法信上人が1基建てた大きな六角名号塔が立つ。「南無阿弥陀仏」と刻まれたこの六角名号塔は千人供養塔で、法信上人のものは3千人供養塔になっている。

八坂神社

 慶長年間(1598-1615)に利根川が反乱した際、鯉と亀に守られた神輿が漂着したという謂れから社を建立した。

 社殿には素盞嗚尊が祀られ、「狛犬」ならぬ「狛鯉」がある。鯉の口も阿吽の形になっている。

利根川橋

 江戸時代、利根川は防衛上の理由から架橋は許されず、船で行き来していた。日光道中唯一の関所があり、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まった。

 現在は641mの長さの橋がかかり、渡り切るのに10分以上かかる。はるか遠くには男体山の勇姿を見ることができる。 

中田宿

 江戸時代、旅人の多くは江戸を発って2日目には栗橋か中田で宿を取った。大正、昭和にかけて利根川は大改修工事され、宿場そのものが移転してしてしまったため、宿場を感じさせる古いものは何もない。

鶴峯八幡宮

 養和元年(1811)に源頼朝が鶴岡八幡宮から勧請したのが始まりという。新田義貞が北条高時追悼の折に祈念して勝利を得たという言い伝えのある八幡宮。

 中田の鎮守であり、現在は御朱印が個性的なことで人気がある。

中田の松原

 古河城主・永井尚政が寛永7年(1630)に植えたと伝わる松並木。茶屋新田から原町までの4kmに及んだ。残念なことにこれらの松は、太平洋戦争時に松の根から油を取るために根こそぎ伐採されてしまった。

 平成6年から景観の復活を目指してクロマツが植樹されたが、幹はまだ細い。

古河一里塚

 現在は古河第二高校のグラウンド内にある。「一里塚」と書かれた白い杭が目印で、沿道から見ることもできるが、事務所で手続きすれば間近でも見学できる。

長谷寺

 明応2年(1493)、古河公方・足利成氏が個が上の鬼門除けとして鎌倉の長谷寺から勧請した。奈良県、鎌倉の長谷寺とならぶ「日本三長谷」の観音と称される十一面観音像が本尊。

鷹見泉石記念館

 古河藩家老の鷹見泉石の住居を復元したもの。幕末、水戸藩は尊王攘夷派の天狗党の乱に巻き込まれ、幕府に降った水戸藩士100名以上を収容したこともある。

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