細尾尋常小学校 (旧日光市の廃校 08)

 「細尾尋常小学校」は明治期のうちに「日光尋常小学校西校」と改称し、現在の日光市立清滝小学校のルーツとなる学校である。この章では清滝小が現在地に移るまでの歴史を辿りたいと思う。 

鉢石学舎の第一番・第二番分校

 明治7年(1874)3月、細尾村の小平惣吾郎が所有していた家屋(*1)を借受け「鉢石学舎第一番分校」が、清滝村の円通寺(*2)に「第二番分校」が開校した。大谷川を挟んで右岸に細尾第一番分校、左岸に清滝第二番分校が設置されたことになる。

小平惣吾郎が所有していた家屋
小平惣吾郎が所有していた家屋があった場所(*1)。古い石積みが残る鉢石学舎第一番分校跡。
清龍寺
清瀧寺。もとはこの場所に円通寺があった。(*2)鉢石学舎第二番分校跡。

都賀郡細尾村

 第一番分校が開かれた都賀郡細尾村の開校当時の様子を見てみよう。都賀郡細尾村は山間の寒冷な礫質地れきしつち(土ではなく小石が多い土地)のため水田はなく、麦・粟・稗などの畑作物、鹿・猪・山鳥などの狩猟、細尾峠越えの旅人を対象とした旅籠、そのほか薪炭生産を生業とした静かな山村だった。しかし明治10年(1877)、古河市兵衛が足尾銅山開発に着手し、必要資材の搬入および銅の搬出を日光・今市方面に求めると、細尾村は足尾-日光の中継地としてにわかに活気を帯び始める。

 明治23年(1890)、足尾銅山の関連物質を運搬するため、古河鉱業が細尾峠越えの「架空鉄索道」(細尾・神子内間3,892m)を建設し、細尾村の大木戸地内に鉄索の荷物の集積所を設置した。その後、銅山開発の進展とともに、細尾は足尾への玄関口として急速に発展していく。古河鉱業により明治39年(1906)水力を利用した細尾第一発電所、明治43年(1910)には細尾第二発電所が設置され、その頃になると細尾峠を越えて足尾に日用品を運ぶ駄馬は300を超え、細尾には行商人の宿が建ち並んだ。

細尾の街並み
正面に見える山に支柱があり、細尾のこの場所から神子内を架空鉄索道で繋いだ。

 しかし、大正3年(1914)に足尾鉄道が全通すると、物資輸送ルート変更のため「鉄索道」輸送が中止・撤去され、足尾と清滝を結ぶ中継点として発展した当地もその意味を持たなくなり、徐々に衰退を余儀なくされた。

都賀郡清滝村

 続いて第二番分校が開かれた都賀郡清滝村である。明治初期、開校当時の清滝村は、高冷地にあるためやはり稲作には適さず、大谷川を挟んだ対岸の細尾村のように畑作や狩猟などが生活の中心であった。日光市史によると明治5年(1872)時の人口は261人、明治24年(1891)時でも218人とある小さな村である。学校が置かれた円通寺は現在の清瀧寺の場所にあった。その当時、円通寺も、現在の清滝神社の場所に別当寺として存在した清瀧寺も、どちらも明治期の廃仏毀釈により廃寺となっていた。その後、明治39年(1906)に操業を開始した古河鉱業会社日光電気精銅所により清滝が活気づいたのを期に、明治42年(1909)に円通寺と合併という形で清瀧寺として復興した。この際には日光電気精銅所からの多額の寄付があったと言われる。

 日光電気精銅所の設置は清滝の様子を一変させた。工場に付随する工業施設や発電所等が次々と建設され、清滝は近代工場を核とした一大工場地帯となる。昭和20年(1945)には従業員数1万5,753人(日光市史)を数え、清滝や細尾にはたくさんの社宅が立ち並んだ。明治期は200~300人程度の人口しかいなかった清滝は、大正14年(1925)には4,513人、昭和20年(1945)の最盛期には9,542人と、爆発的に人口が増えていった。

細尾尋常小学校・日光尋常小学校西校

 さて、この2つの村の歩みを念頭に開校当時に遡る。明治7年(1874)に開校した「鉢石学舎一番分校」と「二番分校」は、学校を維持する経費や訓導(教師)の不足の関係からか、短期間のうちに統合されて大谷川の右岸と左岸を行ったり来たりと移動することになる。
 明治10年(1877)1月には合併して、円通寺内に「鉢石学舎清滝分校」と改称された。その後生徒数が増えるに従い、明治17年(1884)7月、再度細尾村の小平惣吾郎の土地に移転し校舎25坪を新築し、「晃嶺学舎細尾分校」と改称した。鉢石学舎から晃嶺学舎と変わったのは、この時期に本校(後に日光小学校となる)である学校が統合して改称したからである。

 話は逸れるが、その校地の直ぐ側にある不動明王像には言い伝えがあり、古老いわく“ここからまっすぐ目の前に見える山の頂上に鉄索道の支柱があり、そこには明治大正期は賭場が開帳されていた。ある時、一人が「この勝負に勝ったら等身大の石像をこしらえる」と大見得を切り、実際にその勝負に勝ってしまったことで、本当に石像を作ることになってしまった。当時は賭場のあった山の頂上に場所に作られたが、鉄索道の撤去に伴い、細尾の里に移された。今でも勝負事にご利益がある”と言われている。

石仏
細尾の不動明王像

 その後、校舎が狭隘になったので小規模の増築をするなどして、明治33年(1900)、独立して「細尾尋常小学校」とする。
 明治41年(1908)4月には、細尾下ノ原に間口17間(約31m)奥行き5間(約9m)、85坪の堂々たる校舎を新築し、「日光尋常小学校西校」とする。この校舎は大正10年(1921)までの13年間しか使われなかったが、この場所は現在は「栃木日光材細尾モデルセンター」となっていて、細尾交番の横にある。建物裏側には校庭として使用されていた広い空き地があり、そこにはかなり錆びた古い遊具が設置されているが、これはさすがに当時のものではないだろう。鉄材であれば、過去の戦争中に供出されてしまっていると思うからだ。

細お尋常小学校が置かれた場所
日光尋常小学校西校が置かれた栃木日光材細尾モデルセンター
校庭
校庭
古い遊具類
校庭の片隅にあった古い遊具。

 西校は翌明治42年(1909)5月3日に開校式を挙行する(ちなみに清滝小学校の開校記念日は10月28日である。清滝小開校記念日の制定については、今から80年以上前の昭和9年(1934)10月28日に挙行された「創立60周年記念講堂落成記念式典」に由来するものである)。

 そしてさらに翌明治43年(1910)4月には、一度日光電気精銅所に売り払った旧校舎を借り受け、3年生、4年生の児童をここに移し仮校舎とする(日光町史)など、日増しに児童が増えていく賑やかな当時の様子が偲ばれる。

 大正10年(1921)、日光電気精銅所が提供した校舎新築費数万円を元手に地域住民の浄財を集め、現在の清滝小学校の地に移転が決まり、間口32間(約58m)、2階建の校舎を新築落成した。その2年後の大正12年(1923)には念願の高等科を設置し、「日光第二尋常高等小学校」とした。ここまでを「細尾尋常小学校の歴史」として紹介した。

 昭和29年(1954)に全校生2,181名の規模を誇ったマンモス校・清滝小学校は、令和4年(2022)現在、21名の児童が通学している。訪れた秋には、校庭の木々や周囲の山々が見渡す限りの紅葉で彩られていたこの学校も、令和6年3月での閉校が決定している。

清滝小学校の二宮尊徳像
清滝小学校の二宮尊徳像
  • 明治7年(1874)3月 「鉢石学舎第一番分校」として細尾村の小平惣吾郎宅に、「第二番分校」として清滝村円通寺に開校する。
  • 明治10(1877)年1月 第一番分校、第二番分校を合併し、清滝村円通寺内に「鉢石学舎清滝分校」とする。
  • 明治17年(1884)7月 細尾に25坪の校舎を新築。「晃嶺学舎清滝分校」とする。
  • 明治25年(1892)12月 「日光尋常高等学校尋常科細尾分校」と改称(高等科は置かれていない)。
  • 明治29年(1896)3月 校舎狭隘につき、3坪増築。
  • 明治33年(1900)9月 独立して「細尾尋常小学校」とする。
  • 明治35年(1902)9月 校舎狭隘に付き、さらに4.5坪の増築。
  • 明治41(1908)年4月 細尾下ノ原に、85坪の校舎を新築し、「日光尋常小学校西校」と改称する。
  • 明治42年(1909)5月3日 開校式を挙行する。
  • 大正10年(1921)8月 現在の清滝小学校の地に間口32間、2階建ての校舎を新築落成しここに移る。
  • 大正12年(1923)4月 高等科を設置。「日光第二尋常高等小学校」と改称した。

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