日光街道を歩く04 第1日目

日本橋ー千住宿


2019.01.15
都営浅草線日本橋駅ー東武北千住駅
距離17.01km 時間4:33:17 高度上昇44m 

 1日目。日本橋に立つ。始まりは昔も今も日本橋。ここを起点とし、いわゆる五街道が伸びている。「東京まで○km」とはこの場所までの距離である。

 首都トーキョーの華々しい部分と、現代までそれを支えた影の部分。強い光と影の対比を多く含む行程である。

日本橋

 「日本橋」は徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)に架橋。橋の下には江戸城の大手門から隅田川を結ぶ日本橋川が流れ、荷船や客船が頻繁に行き来した。

 1919年(大正8年)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされ、橋上に「日本国道路元標」が定められた。また、その頭上の空中には「東京市道路元標」が設置されている。橋の北側にはそれらのレプリカが飾られている。

 南側の日本橋交番のあたりは「晒し場」があり、主殺し、女犯僧、密通の男女や心中未遂者などが処刑3日前からさらされた。北側の乙女広場には「日本橋魚河岸」があり、関東大震災後に築地に移された。

 現在の橋は明治44年(1911)に完成したもので、橋名標の「日本橋」の文字は第15代将軍徳川慶喜の筆である。

十思公園

 江戸伝馬町牢屋敷跡、吉田松陰終焉之地、時の鐘がある。

 伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治八年に市ヶ谷囚獄が出来るまで約270年間存続し、この間の処刑者は10万人程度と言われる。

伝馬町牢屋敷・時の鐘

 安政の大獄で投獄された吉田松陰は、安政6年(1859)、江戸市中引き回しの上、この伝馬町牢屋敷で斬首された。遺骸は小塚原刑場(現荒川区南千住)に運ばれた。

 時の鐘は当時日本橋の石町(こくまち)にあり、時間を告げる役目を果たしていた。伝馬町牢屋敷ではこの鐘を合図に首が刎ねられたので、このため処刑者が出る日は鐘突番は実際の時刻よりわざと遅らせて鐘を突き、少しの時間でも延命をはかったといわれ、その情を知る住民は「情けの鐘」とも呼んだそうである。

浅草御門

 浅草橋御門、浅草見附とも言われる。日光街道の出入り口の関門として、神田川が隅田川に流れ込む部分に建てられた城門である。。

 「浅草寺 見附で聞けば つきあたり」という句の通り、浅草見附(浅草御門)を渡り真北が浅草寺となる。

明暦の大火

 明暦3年(1657)、江戸の街を灰燼に帰した未曽有の火災、「明暦の大火」が起こる。二日間のあいだに連続して3件の火災が発生し、江戸市中の大半が消失した大火災だった。伝馬町牢屋敷では迫りくる火の手に、牢屋奉行の石出帯刀が「火災が収まったら戻ってくること」を条件に、人道的に牢獄の罪人を開放した。しかしそのことが役人の間でうまく伝達されていなかったため、集団で脱獄する事案が発生したと勘違いした門番が、神田川に架かる橋の入り口である浅草御門を閉ざしてしまった。そこへ浅草御門を抜けて風上に逃げようとする町民数万人が続々押し寄せすし詰め状態になり、そのために今度は門が開けられなくなってしまった。

 後ろから炎が迫ってくるため、民衆は我先にと塀を乗り越え、石垣を転げ落ちて、さらに後ろから飛び込んでくる人たちの下敷きになり堀は埋まり、後からその上に飛び降りた人たちが水の中で重なる人々の上を渡って命を救われた。

 この場所だけで2万3千人余りの死者を出し、その2年後、防災のため東側の隅田川に両国橋が架橋された。城の防備上の理由から、架橋が許されなかった隅田川に初めて架かった橋である。

駒形堂

 浅草寺の御本尊が川から上がった場所と伝えられる。

 敷地内には元禄6年(1693)に建立された戒殺碑がある。天保5年(1834)の大火災で消失したと考えられていたが、昭和2年(1927)の護岸工事の際に発見された。

1/3は剥落しているが、「諏訪町(駒形2丁目)から聖天岸(浅草7丁目)の10町余りは浅草寺の霊地であるから魚鳥の殺生を禁ずる」という意味のことが書かれている。

浅草寺

 都内最古の寺院である。本尊は推古天皇36年(628)、隅田川で魚網にかかった聖観音像であるが、大化元年(645)に勝海上人が絶対秘仏としたために明らかになっていない。江戸時代の俗説では、5cmあまりだと言われた。

 除夜の鐘としても撞かれる鐘楼は東京大空襲で焼けたものの、鐘は焼失を免れ現在に残り、芭蕉が「花の雲 鐘は上野か 浅草か」と詠んだものである。

雷門

 浅草寺(せんそうじ)のシンボルとも言うべき総門、雷門(正式には風雷神門)は江戸時代に何度も火災にあい、慶応元年(1865)に消失してからは明治、大正時代には再建されなかった。イザベラ・バードが浅草を訪れ仲見世の賑わいを書いたときには門は無かったということである。

 今現在の雷門は、昭和35年(1960)に95年ぶりに松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により再建されたものである。

浅草神社

 毎年5月の三社祭は勇壮な神輿渡御が行われ、延べ180万人の観光客が集う。

待乳山聖天

 まつちやましょうでん。こんもりとした高台にあり、隅田川を往来する船の目印となった。隅田川を望む景勝地として浮世絵の題材にもなったが、現在はスカイツリーがよく見える。

 商売繁盛、夫婦和合などのご利益があるとされるが、場所柄か水商売の神としても篤く信仰を集めていて、「聖天は娘の拝む神でなし」とも言われた。

今戸神社

 境内に新選組一番隊長「沖田総司終焉之地碑」がある。労核を患った沖田はこの地で幕府御典医の松本良順に看病されたが25歳で亡くなった。

 招き猫発祥の地とされ、社殿では大きな招き猫が参拝客を迎える。

山谷堀公園

 現在は堀は地中に埋められ、春には桜のきれいな公園に整備された。隅田川からこの堀を上って行くと新吉原があり、粋人が船で遊郭に繰り出した。

弾左衛門屋敷跡

 弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の頭領。穢多頭。身分的には被差別階層であったが、武具製造には欠かせない軍需産業である皮革加工や、燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工などの製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して権勢を誇り、当時の為政者から差別を受けつつ保護される存在であった。

 弾左衛門の地位は世襲とされ、幕府から様々な特権を与えられ、その生活は豊かであった。巷間旗本や大名と比較され、格式1万石、財力5万石などと伝えられた。弾左衛門屋敷は山谷堀の今戸橋と山谷橋の間に位置し(現在の東京都立浅草高等学校の運動場にあたる)、非常に広大な敷地であった。

 関東大震災と東京大空襲の被害を受けたこともあり、弾左衛門にかかわる遺構はほとんど残っていない。

泪橋

 思川に架かる橋を渡ると小塚原刑場になる。引き立てられる罪人と親族はここで最後の別れをしたため、この橋は泪橋とよばれた。現在では思川は全て暗渠化されているため橋の面影はなく、その名前は交差点やバスの停留所に付けられる事で残っている。

小塚原刑場

 江戸時代には鈴ヶ森とともに二大刑場と言われた小塚原は、処刑場と埋葬場を兼ねていた。

 見せしめのため、天下の公道日光街道沿い、千住宿の外れに設置された。刑場として開設されてから220年あまりの間、埋葬された屍体は20余万と言われる。

 伝馬町および小塚原で処刑された屍体は埋葬が禁じられていたため、罪人頭に下げられ、その遺体は小塚原に取り捨てとなった。

 説明文には「遺体の上に薄く土を掛けておくだけで放置され、雨水に洗われて手脚が漏れ出ることも珍しくなく、特に暑中は臭気が鼻をついた。野犬やイタチが屍体を喰い残月に啼く様は、この世ながらの修羅場であった」と書かれている。

 国鉄が整備され始めた頃、このあたりからはたくさんの人骨が出土した。

 現在でもこのあたりはいわゆるドヤ街と言われた「山谷」「三ノ輪」の一部で、一泊2500円などで泊まれる宿が非常に沢山ある。私は度胸がなかったので宿には立ち入れなかった。

延命寺

 境内に首切り地蔵と言われる大きな地蔵尊がある。高さ3.6m、27個の花崗岩の寄石造りで、寛保元年(1741)に刑死者の菩提を弔うために建立された。

 延命寺は浄土宗の寺であるが、「南無妙法蓮華経」と刻まれた大きな題目を彫った石がある。

回向院

 寛文7年(1667)の創立。杉田玄白らが刑死者の腑分け(解剖)に立ち会い「解体新書」を記した縁から、境内に観臓(かんぞう)記念碑」が設けてある。

 安政の大獄以降、桜田門外の変、坂下門外の変など国事犯の刑死者はたいていここに埋葬されている。吉田松陰、橋本左内、鼠小僧、高橋お伝の墓も見られる。

 また、吉展地蔵尊(吉展ちゃん誘拐事件の村越家の墓)がある。

山田浅右衛門

 漫画・小説・時代劇などで見る山田浅右衛門(やまだあさえもん)は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称。

 刀剣鑑定士でもある山田浅右衛門は、刑死者の遺骸を拝領することを許され、刀剣の試し切りなどを行った。

 死刑執行人も兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。

 またその臓腑から作った「浅右衛門丸」という丸薬も販売し、それらの収入は非常に高かったと言われる。

浄閑寺

 遊郭、新吉原のそばにある。安政2年(1855)の大地震では新吉原の遊女の遺体が多数投げ込まれたも同然に放置され、「投げ込み寺」と呼ばれた。また、客との心中や妊娠中絶、病気や足抜け(逃亡)の失敗で亡くなった多くの遊女や、関東大震災、東京大空襲で亡くなった遊女もここに埋葬されている。

 遊女は大半が無縁仏として埋葬され、本堂裏には彼女たちを弔う「新吉原総霊塔」があり、鉄格子の隙間から骨壺がびっしりと詰め込まれた生々しい様子をみることができる。

 遊郭としての吉原は昭和33年4月1日の売春防止法施行まで存続したので、当地で江戸・明治・大正・昭和と301年続いたが、関東大震災で亡くなった数も含めて記録に残るだけでも約25,000名の遊女がここに運び込まれた。

 また、日本の高度成長期にこの近辺のいわゆるドヤ街で亡くなった身寄りのない日雇い労働者の集合墓地や供養塔もあり、日本の暗い部分を考えさせられる。

円通寺

 延暦10年(791)に坂上田村麻呂が創建した曹洞宗の寺。戊辰戦争時、上野戦争に破れた旧幕府軍の兵士の遺骸はそのまま放置されたが、この寺の仏磨和尚が新政府に願い出て旧幕府軍の亡骸を葬った。彰義隊士(旧幕府軍)の墓がそれである。

 またその縁で、明治40年(1907)に上野寛永寺の黒門(現在の京成上野駅の裏手あたり)がこの場所に移築された。黒門にはおびただしい数の鉄砲の弾痕が残り、戦闘の激しさを今に伝える。

素盞雄神社

 すさのおじんじゃ。延暦14年(795)の創建。修験道の開祖である役小角の高弟「黒珍」が、夜毎に光を放つ石から現れた老人に神託を受け、素盞雄大神を祀ったのが起源とされる。

千住大橋

 初代の千住大橋は文禄3年(1594)に架けられた木製の橋である。千住大橋は昔から旅人たちが別れを惜しむ場所となっていて、「奥の細道」の旅立ちでは芭蕉が「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ」と書いた。芭蕉やイザベラ・バードが目にし、歌川広重も浮世絵「千住のおおはし」で描いたこの木製の橋は、明治18年(1885)の洪水で流されるまでの300年以上、逞しく架かっていた。昭和2年(1927)に鉄製に架け替えられ現在のクラシックな面持ちの鉄橋になった。

 千住大橋は北岸は足立区千住、南岸は荒川区南千住に接岸されているが、船で隅田川を遡上してきた芭蕉がどちら側に上陸したのかは、芭蕉並びに同行した曽良も記載していない。そのため、「芭蕉出立の地」論争は両自治体とも一歩も譲らず、現在も長らく続いている。

 私自身の感想を述べれば、記念すべき出立の書き出しの中で「橋を渡った」という情景が書かれていないことを考えると、北側に着岸し、橋は渡っていないのではないかと思う。

勝専寺

 文応元年(1260)開基。将軍の鷹狩の際には休憩所となり、第2代~4代将軍の御殿が設けられた。

 私が訪れたときにはたまたま縁日と重なり(毎年1,7月の15,16日)、閻魔堂が開帳され露天が立ち並び、非常ににぎやかな境内だった。

ここで雨が降ってきたために本日の行程はここで休止とする。

場所柄、重苦しい雰囲気が今なお残る場所が多かった。

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