徳川家康の遺骸 01
徳川家康の遺骸 02
徳川家康の遺骸 03
日光山と久能山、2つの東照宮
日光に住む我々にとっては当然、「東照宮」とはすなわち「日光東照宮」のことを指す。だが全国的に見れば東照宮と名のつく神社は100を超えるのだという。僕自身も考えてみれば、日光市栗山の野門には「栗山東照宮」があるし、上野でパンダを見た帰りにも「上野東照宮」があることを思い出す。
それもそのはず、廃止されたものも含めれば、昔は東照宮は全国に500以上を数えたということだ。
一般的に我々は、徳川家康の遺骸は日光にあって、他の「東照宮」は日光から勧請(神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)したのだろうと思っている。
しかし、世の中には「それは違う」と本気で考え、ある説を列挙する人も少なくない。それは、「家康の遺骸は久能山東照宮(静岡県静岡市、標高216m)にあるのだ」という説である。
ほとんど大多数の人は「家康は日光に眠っている」と考えている。割合でいうと、9対1よりもっと多くの人が「日光」と答えるのではないだろうか。
従って、常識とも言える「日光説」を声高らかに唱える人はあまり多くない。
「当然日光にある。いや違う?そんなトンデモ説なんて知らん」といった感じである。
今回は、日光説と久能山説をなるべく私情を挟まずに、たんたんと比較してみよう。
家康、死の間際に
元和2年(1616)4月17日、徳川家康は駿府城(静岡県静岡市)で生涯を閉じる。満73歳、死因は胃がんであったと伝わる。以前、家康の死因は「天ぷらによる食中毒」と言われていたが、現在はこの説は懐疑的とされている。
この頃、すでに家康は将軍職を三男の徳川秀忠に譲って大御所となり、駿府城に隠居城を構えていた。
家康は死期を悟ったころ、本多正純、金地院崇伝、南光坊天海の3人を集めた。こんな時に招集されるくらいなので、言うまでもなくこの3人は「側近中の側近」と言えるだろう。
本多正純
栃木県民にとっては「宇都宮吊り天井事件」で有名。
徳川家康の家臣であったが、2代将軍秀忠からは冷遇され、秀忠の幕閣に名を連ね宇都宮15万石の大名となったが、吊り天井事件で失脚。
金地院崇伝
京都の南禅寺金地院に住んでいた「以心崇伝」は、黒衣の宰相と呼ばれた臨済宗の僧。金地院に住んでいたため「金地院崇伝」とも呼ばれる。家康の側近として外交事務と寺社行政を担当し、武家諸法度や禁中並公家諸法度の起草に携わった。
京都方広寺の鐘の「国家安康」「君臣豊楽」に目をつけ、これに対する言いがかりが大阪の陣に発展していったとも言われている。
南光坊天海
天海は天台宗の僧で、慈眼大師とも呼ばれる。江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
遺言
その3人を集めて語られた遺言が以下の通りである。
臨終候ハ丶御躰をハ久能へ納。
金地院崇伝の『本光国師日記』
御葬禮をハ增上寺ニて申付。
御位牌をハ三川之大樹寺ニ立。
一周忌も過候て以後。日光山に小キ堂をたて。勸請し候へ。
八州之鎮守に可被爲成
大まかに4つの事柄が記されている。これを現代語に訳してみよう。
- 遺体は久能山(静岡県静岡市)に埋葬すること。
- 葬儀は江戸の増上寺(東京都港区)で行う。
- 位牌は大樹寺(愛知県岡崎市)に立てること。
- 一周忌の後、日光(栃木県日光市)に小さな堂をたてて勧請すること。
これは葬儀を取り仕切る崇伝や、天海が支配する日光山、徳川家の菩提寺である増上寺、父祖の松平家の菩提寺である大樹寺など、周囲に対し非常に配慮の行き届いた遺言であった。
家康が亡くなると、遺骸はその日のうちに久能山へ運ばれ、通夜さえも行わずに古来よりの吉田神道(唯一神道)の作法によって埋葬された。吉田神道とは当時神道の主流とも言えるもので、神道家の神龍院梵舜が司り、梵舜は豊臣秀吉の死後、豊国大明神を祀る豊国神社の創設に尽力しその社僧も努めた人物でもある。吉田神道での葬儀は、崇伝が勧めるものであった。翌18日、19日は盛大な祭祀が営まれた。これももちろん吉田神道の作法によるものである。
ちなみに、家康は亡くなる3ヶ月ほど前の元和2年(1616)1月21日、鷹狩に出かけた際の夕食で、鯛の天ぷらを食べて具合を悪くした(これは胃がんが原因と言われている)が、その報を聞いた秀忠はすぐさま江戸城から駿府城まで駆けつけ、家康の死後1週間ほどまでの3ヶ月あまり、駿府城にとどまっていた。
もちろん秀忠は、その遺言のことは当然知っていたと考えられる。
続く。
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