北和泉尋常小学校 (旧日光市の廃校02)

 北和泉尋常小学校について書かれた書物は非常に少なく、また和泉の地を可能な限りあたって調べた所、和泉地内でも「初めて聞いた」という人々がほとんど、というかなりレアな学校である。
 北和泉尋常小学校と、次項で触れる七里尋常小学校について多少なりとも書かれている書物は、筆で書かれた「日光町史(日光尋常高等小学校編纂(1911(明治44年)刊行))」と「日光史(星野理一郎(1937(昭和12年)刊行))」がほとんど全てと言っても差し支えないが、これらも校名や年表などの記述が一致しない。
 「日光市史(日光市史編さん委員会(1979(昭和54年)刊行))」に至っては、お金をかけて偉い先生方が編纂したオフィシャルに近い郷土史だと思うが、はっきり言って「支離滅裂」と断言できる。よって、ここでは日光史と日光町史から学校の歴史を「おおまかに」紐解いていきたいと思う。

和泉村月蔵寺に小学校を開校

 北泉和尋常小学校は、正式な年度は不明であるが明治初期に和泉村の月蔵寺を利用して開校された「小学校」(便宜的に小学校と呼ぶが、正式名称は不明)と、その分校として設置された「野口分校」が明治8年(1875)に合併し、「生岡学校」と称して月蔵寺を間借りして開校したことが始まりとなる(日光史)。通学区域は現在の和泉村、瀬川村、平ケ崎村であった。明治6年(1873)には七里に鉢石学舎七里分校が出来たため、実質的には七里に近かった野口分校は廃校という形を取ったのかと思われる。
 その後明治17年(1884)(12年とも)に、月蔵寺の西側に校舎を新築し、「北和泉学校」となり、山窪村(現・日光市山久保)に「山窪分校」を置いた。

月蔵寺
月蔵寺

 ちなみに「北和泉」という地名は「北」と付いているが、江戸から明治初期までは「和泉村」と称しており、明治12年(1879)に「北和泉村」となり、その後明治22年(1889)の町制施行により「日光町大字北和泉」となった。これは昭和初期までの地図に見られる地名であり、昭和29年(1954)の市町村制のタイミングで「和泉」と大字名を変えている。当時から現在まで、「北和泉」の他に「東西南」が付く和泉の地名はないが、何の事情があってわざわざ「北」と付けたのかはわからない。

 明治20年(1887)、「北和泉尋常小学校」と改称。

 明治23年(1890)には町村制施行の結果、通学区域だった瀬川村と平ケ崎村が今市町に編入となったため、北和泉尋常小学校は和泉の子弟のみが通学区域となった。このために生徒が減少し、その結果、日光七里尋常小学校の分校となった。

和泉の地図
明治時代の地図。矢印の箇所に「文」の文字が見える。

七里尋常小学校との合併

 明治33年(1900)には日光七里尋常小学校より分離独立となったが、明治42年(1909)、北和泉尋常小学校と七里尋常小学校を廃校とし、野口に「日光尋常小学校東校(後の野口小学校)」を開校した。

 現在、廃校となってからずいぶんと時が経過して、統合後の野口小にも、さらにその後統合先となった日光小にも当時の校務日誌などは見つかっていない。

  • 明治8年(1875) 生岡学校と称し北和泉村月蔵寺を教室として開校。
  • 明治17年(1884) 校舎を新築し、北和泉学校と称し、山久保に山窪分校を置いた。
  • 明治20年(1887) 北和泉尋常小学校と改称。
  • 明治23年(1890) 町村制施行の結果生徒が減少し、日光七里尋常小学校の分校となる。
  • 明治33年(1900) 日光七里尋常小学校より分離独立し、日光町立北和泉尋常小学校となる。
  • 明治42年(1909)4月 廃校。野口に新しく開校した日光尋常小学校東校に統合される。

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