今市の廃校7 今市市立吉沢小学校

今市市立吉沢小学校

住所:日光市吉沢77

 吉沢小学校跡は、例幣使街道の室瀬を流れる田川を跨ぐ荒神橋のそばにあった。現在は石造りの門柱が片側のみと創立80周年を記念した石碑がある(*1)。近年まで痛みの激しい講堂が残っていたが、それも取り壊されてしまった。

 吉沢小学校の生い立ちを探る。
 明治8年(1875)2月22日、吉沢村、千本木村、下の内村、室瀬村の連合で、今市村の時習舎の三番分校として千本木村に創設され、千本木学舎と称した。校舎は千本木村下ノ内の吉原よし所有の弥勒院を借用した。弥勒院は明治20年(1887)代に断絶した寺院であるが、現在は下ノ内で墓地としてその名残があり、本堂のあった場所はきゅうり畑となっている(*2)。現在も地元の人はその前を通る道と例幣使街道の交点を「弥勒院角」と呼んでいる。
 ちなみに弥勒院にあった薬師堂は、明治末期に春日町の穀問屋であった小林氏の手にわたり春日町西裏通りに設置されていたが、昭和50年(1975)代に取り壊されてしまったという事だ(渡辺武雄著「今市の懐旧」)。これは比較的最近の出来事であるはずなのに、手を尽くしても、どうしてもその現物を見たことのある方には出会えなかった。ご存じの方がおられたらぜひ教えていただきたいと思います。

 明治14年(1881)、四村協議の上現在地(吉沢村御地谷)を購入して移転し化龍館と称した。明治17年(1884)には土沢の宝珠院にあった土沢学校(今市学舎分校)を統合した。

 明治29年(1896)には校舎を改築するために、日光市室瀬430の吉原氏が所有する居宅の一部を借用して授業を行った。吉原氏は現在もその場所にお住まいで、古い大きな木造住宅があるがこれは昭和初期のものであった。広々とした素晴らしい庭園を備えた旧家である。
 同年12月、未完成の新校舎に再度移転した。生徒数は比較的多かったため校舎は幾度か増改築を行い、最盛期の昭和2年(1927)には児童213名を数えた。

 吉沢小には児童文学者千葉省三の父が校長として赴任し、省三も一時通学していた旨の案内板が校庭跡にあるが、サビと損傷が激しく現在は判読が困難である(*3)。明治27年(1894)、千葉省三の父亀五郎は吉沢尋常小学校の校長となり、小学生であった省三も一家で校長住宅に移った。学校周辺で弟の芳男と遊んでいた省三は後年、その時の記憶を基に「炭焼きごっこ」などの作品を世に出した。また、父が今市の書店で買ってくる「日本お伽噺」、「アラビアンナイト」などを読んで、本の面白さに目覚めたのもこの頃だったという。
 明治32年(1899)、亀五郎が楡木尋常小学校に転任となったことにより一家は楡木まで引っ越すが、吉沢から楡木まで十数頭もの馬車に荷物を積んで例幣使街道を楡木まで向かった時の記憶を基に、後に「乗合馬車」という作品が生まれた。

今はすでに解体されてしまった講堂

 昭和48年(1973)3月に今市第三小学校の開校に伴い廃校となる。第三小の学区は吉沢小を始めとし、今市小学校に通っていた小倉5丁目、東町、清原町、七本桜の4区と大室小学校学区の森友の一部であった。当初、校舎新築は3期に渡る長い工期があったため、吉沢小学区の児童は4月から第三小に通うことができたが、それ以外の学区の児童は夏まで暫定的に今市小学校(今市第三小学校今市小学校教室)に通った。

  • 明治8年(1875) 吉沢村、千本木村、下の内村、室瀬村を連合して今市村時習舎第三番分校として開校。校舎は千本木村の弥勒院を借用し、千本木学舎と称した。
  • 明治14年(1881) 現在地を購入して校舎を設立、化龍舘とする(当時の地名は御地谷)。
  • 明治17年(1884) 土沢学校を統合。
  • 明治23年(1890) 上都賀郡吉沢尋常小学校とする。
  • 昭和16年(1941) 今市町吉沢国民学校とする。
  • 昭和22年(1947) 今市町立吉沢小学校とする。
  • 昭和29年(1954) 今市市立吉沢小学校とする。
  • 昭和48年(1973) 廃校となり、今市市立今市第三小学校に統合される。
(*1)右側のみ門柱が残っている。(*1)奥側に校舎と講堂があったが解体されてしまった。
(*3)千葉省三の看板は読みにくい(*1)校舎増改築記念碑
(*2)千本木学舎があったと思われるきゅうり畑(*2)弥勒院墓地
スマホで撮った写真は緑が不自然すぎて不気味。

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