今市の廃校5 小百小学校・小休戸分教場

日光市立小百小学校

住所:日光市小百531

 まだ記憶に新しい小百小学校の廃校。同小は、明治6年(1873)に小百学舎として字宮越の現在地にあった天台宗宝勝寺(明治5年に廃寺)の本堂を仮校舎として開校した。宝勝寺は小百の高雄神社・愛宕神社の別当寺であり、日光山桜正坊が宝勝寺住職となったという記録が東照宮に残っている。

 その他、小百小の歴史を伝える資料の中には、小百小に残るものはもちろんのこと、大桑小の沿革史にも小百小の名を見ることができる。これは明治の一時期、大桑小は小百小の分校だったからである。

 明治33年(1900)には宝勝寺の堂宇焼失とともに校舎も焼失し、その後4年あまりの間、小百下乃沢の湯沢家、石川家、原宿の山本家などいくつかの民家を借用しての分散授業を行った。

 大正年間の児童数は200名を超える児童数で推移した。

 校舎は明治37年(1904)に作られた校舎を増改築してきたが、いよいよ老朽化が激しくなってきたということで昭和63年(1988)に校舎を全面新築した。現在も残る正門の石柱は、大正13年(1924)1月26日、当時皇太子であった昭和天皇のご成婚を記念して建てられたものである。

 令和4年(2022)に日光市立大桑小学校に統合される形で廃校となった。廃校時の児童は17名であった。現在も校舎はそのままの形で残り、放課後の学童保育に利用されている。

  • 明治6年(1873) 小百学舎として宝勝寺の本堂を仮校舎として開校。
  • 明治22年(1889) 小百第一小学校と改称。
  • 明治24年(1891) 小百尋常小学校と改称。
  • 明治37年(1904) 4年前に焼失した校舎に変わり西校舎落成。
  • 大正3年(1914) 小休戸に分教場を置く。
  • 昭和3年(1928) 御大典記念行事として現在の校地に拡張する。
  • 昭和16年(1941) 小百国民学校と改称。
  • 昭和22年(1947) 豊岡村立小百小学校と改称。
  • 昭和29年(1954) 町村合併試行により、今市市立小百小学校と改称。
  • 昭和63年(1988) 新校舎完成。
  • 平成18年(2006) 市町村合併により日光市立小百小学校となる。
  • 令和4年(2022) 大桑小学校に統合して廃校
明治・大正期の校舎(小百小廃校記念誌より)現在の校舎
廃校記念碑現在も残る大正時代の正門

今市市立小百小学校小休戸分教場

 栗山街道の小休戸(こやすど。小休止とも)は、今でこそ行き交う車も少ないが、元禄元年にはすでに集落が形成された記録が残り、かつては今市と栗山を結ぶ大笹峠越えの中継地として大いに栄えた。今市からは馬車で米、味噌、醤油が運ばれ、ここからかなり急峻な栗山方面への道は馬に荷を積み替えた。栗山からは木炭、荒削りした日光下駄や木製品、繭(まゆ)などが運ばれた。郵便や小包も小休戸が中継となり、栗山から今市の酒屋に注文があると、栗山の郵便局が小休戸まで注文のハガキを届け、その足で今市から小休戸に届いた荷物を持って帰るなどした。

 小休戸集落の最盛期は明治44年(1911)から大正2年(1913)までの鬼怒川発電所の黒部堰堤工事の時期で、人口は増加し当時集落は20数戸まで増えた。馬は多い時で200頭が行き交い、現在の道幅から想像してもそれは驚異的な数である。

 そのようにして小休戸に人口は増えたが、この場所は小百小学校から約8kmの山間にあり、子どもの通学が著しく困難であるとのことから明治43(1910)年9月、民家を借り受け仮分教場が開かれ、さらに大正3年(1914)4月に正式に小百小学校の分校として小休戸分教場が設置された。

 小休戸の歴史をさらに辿る。昭和初期から30年頃(1955)までは今市の守田屋が大笹峠を越えて栗山の各所で歌舞伎芝居の興行を行った。また、今市朝日町にあった港屋が反物や洋品を栗山に運び、非常に喜ばれたという記録がある。

 一方、昭和16年(1941)には、栗山村青柳と川治間の道路開通などにより栗山へのアクセスが容易になった。また戦前の時期には今市から小休戸まで自動車が入れるようになり、昭和28年(1953)頃にはその先の大笹峠まで道路が開通した。このようにして馬を使った荷物の運搬がなくなると、小休戸はかつての中継地としての意味を持たなくなってしまった。

 現在残っている建物は一軒のみで、明治元年建築の斎藤家(無住)のものである。元々は旅籠として使われていた建物で、厩があり常時2頭の馬がいたという。

 小休戸分教場の児童数の記録を見ると、大正5年(1916)に8人、その後昭和20年頃(1945)までは12~13名程度で推移したが、昭和23年(1948)、児童が7名になったことにより本校に統合され廃校となった。小休戸分教場の正確な場所は不明であるが、斎藤家住宅から数十メートルほど今市よりだったと思われ、すでに樹木も太くなった林間にコンクリートの基礎の跡があり、この場所が学校跡ではないかと推察される。廃校となった当時の校舎は小百小学校に移築され、昭和63年(1988)の校舎新築まで音楽室として使われていたという。

  • 大正3年(1914) 小百第一小学校小休戸分教場開校
  • 昭和23年(1948) 小休戸分教場廃校
小休戸集落に唯一残る斎藤家(無住)コンクリートの基礎が見える
小百小学校に移築された小休戸分教場校舎今市朝日町の港屋呉服店

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