如来寺の化け桜

如来寺

雪の如来寺


 星顕山光明院如来寺 せいけんざんこうみょういんにょらいじ は室町時代に創建された浄土宗の寺院である。徳川将軍の日光社参の際の御殿が建てられたり(寛文5年(1665)下賜後に、寛保2年(1742)焼失)、二宮金次郎の葬儀(安政3年(1856))が行われたりもした古刹である。
 日光山御社参録によると、将軍が如来寺に宿泊したのは以下の通りである。

  • 3代将軍 徳川家光 寛永9年、11年、13年、慶安元年
  • 4代将軍 徳川家綱 慶安2年

 家光は、寛永9年(1632)4月、徳川家康の17回忌にあたり日光社参を行ったが、父秀忠が同年1月24日に亡くなっていたため喪中として日光へは入らず、如来寺の御殿にとどまり、秀忠が臨終に際して家光の後見人に任じた井伊直孝を日光に代参させ、土井利勝に祭事を行わせている。

戊辰役戦死者供養塔

 上記の写真は「戊辰役戦死者供養塔」である。戊辰戦争時(慶応4年閏4月20日 – 5月6日(1868年6月10日 – 6月25日))に今市宿が舞台となった今市の戦いの後、新政府軍の兵士の遺体は如来寺境内へ埋葬されたが、幕府軍の遺骸は埋葬を許されず野ざらしにされ、首級は今市宿下木戸(現在の追分地蔵のあたり)に晒された。
 供養塔はそれから約50年後の後の大正6(1917)年、今市町の有志により建碑されたものである。新政府軍、幕軍、住民を問わず諸霊の冥福を祈るためとされたが、事実上は会津藩士の慰霊のためであった。大正時代になっても境内への建立は許されず、やむなく山門の前に建立された。建碑に際しては会津藩士の遺族などの士族300余名が出席している。

化け桜

 如来寺の桜は名所として、日光社参の大名が見物に訪れるほど有名だった。如来寺の境内には桜の老樹が9本もあり、それらは見事な花を咲かせるが、江戸期には松、杉、ひのき、梅、などが千本以上もあったという。

幼稚園庭の前の桜

 その中でも、今市に住む人には「如来寺の化け桜」はつとに知られた桜の古樹である。化け桜は山門に向かって右手にあり、この地方で一番早く花を咲かせるともいわれる。

如来寺の化け桜
今市で一番早く咲くと言われる化け桜

弁天堂

 この名木の空洞には、昔から弁天様の使いと言われる白蛇が住んでいたとされる。そのそばには弁天堂があり、もとは元禄年間に建てられた歴史ある社と言われている。
 弁財天の使いである蛇は、水を司り自在に雨を降らせることができると言われ、弁財天が祀られているところにはなるほど、湖沼であったり、その名残が見受けられる。

古い石積みの弁天堂

 弁財天は女性が琵琶を弾いている姿で表され、弁才天とも書かれる。弁舌の才を助け、音楽、芸能、福徳や財宝を司るとされてきた。
 今市のこのあたりは農民よりは商人が多かったであろうし、上今市駅のあたりにあった遊郭の方たちも拝んだのかもしれない。
 今市の瀧尾神社にも、今市遊郭の関係者が奉納した灯籠がある。昔の人達の信心には本当におそれいる。

 昭和の文献を見ると、如来寺境内の西の端に「巳待塔(みまちとう)」があるという。巳待塔とは巳の日、または己巳の日に行う講行事を言うが、この石塔は現在、森病院の敷地内にある大杉神社の境内に置かれている。

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