栗本義喬

栗本義喬先生顕彰碑(昭和53年)

 今回は、 瀧尋常小学校の回で簡単にご紹介した「栗本義喬くりもとよしたか」氏について調べた。
 栗本氏は大正時代、鬼怒川小学校の前身となる瀧尋常小学校の校地を寄付した人物で、鬼怒川温泉の発展の礎の一人に数えられる。
 栗本氏についてインターネットを調べてもその情報は極めて少ない。よって今回調べたことは栗本氏が私塾を開いた千葉県香取市佐原の図書館や香取郷友会さんのご協力を多大に受けてのものである。この場をお借りして、古い会報のコピー等を送付していただいた皆様に心から感謝を申し上げます。
 栗本氏の人生を辿るにあたり、集めた資料によって年代に幾つか辻褄が合わないことがあったり、おそらくは間違っていることも多く含まれていた。ただ、素人の私にその正誤を「こちらが正しい」と断じることは難しい。それをご容赦頂いて、今回、栗本義喬先生の人生を辿っていこうと思う。
 栗本義喬の生誕の地は「新潟県説」と「三重県説」がありはっきりしない。日光市鬼怒川温泉滝に今も並んで立っている「栗本氏頌徳碑(昭和2年(1927))」と「栗本義喬先生顕彰碑(昭和52年(1977))」にはそれぞれ前者には新潟、後者には三重と刻まれているのを始め、資料によって出身地が一致しない。
 ただ、細かく当たった所、国語辞典『広辞苑』の編纂者として知られる言語学者・新村出しんむらいずるの著書の中に主によく見られる「新潟県説」は具体的なエピソードが乏しく「越後出身の」「新潟生まれの」とだけあるのに対し、「三重県説」の方は家族構成や幼少期の様子などのエピソードに富んでいるため信憑性が高いと思われる。今回は三重県説で発表する。
 (ただし、新潟県三条市には栗本義喬氏が揮毫した石碑「村山半牧頌徳碑」が現存する。新潟に住んだことがあるなど、まるで無関係ではないのかもしれない。)

 瀧尋常小学校の回と少し被る箇所があるがご容赦願いたい。

生誕から大人に

 栗本義喬氏は伊勢国の桑名藩士(現在の三重県桑名市)の父・栗本州介の長男として、弘化2年(1845)2月24日、桑名郡矢田河原に生まれた。
 桑名藩士として成長した栗本は勝海舟と同格の武士であり、儒学者の大橋訥庵おおはしとつあんの弟子であった。生来強情であった栗本は勝海舟の豹変ぶりにいたく憤慨し、勝海舟を斬ろうとしたこともあったという。

大橋訥庵

 大橋訥庵おおはしとつあん(文化13年(1816) – 文久2年7月12日(1862年8月7日))は江戸時代後期の儒学者であり、幕末の尊王攘夷運動に大きな役割を果たした人物である。「とつあん」とは、「とっつぁん」をもじった号で洒落のある人物で、大河ドラマ「青天を衝け」にも登場しているのでご存じの方も多いだろう。訥庵は江戸日本橋で「思誠塾」を開いていたがその教えは好評で、宇都宮藩主・戸田忠温とだただはるの招きで月に1回江戸の宇都宮藩邸で儒学を教えていたこともあり、宇都宮藩の藩籍を持っていた。
 老中・安藤信正の公武合体に強硬に反対し、倒幕を企てる激派の訥庵は、江戸の宇都宮藩邸に出入りしていた関係から宇都宮藩士に大きな影響を与えることになる。
 安藤信正の暗殺など、複数の倒幕計画に関与していた訥庵は、文久2年(1862年)1月、日本を揺るがす大きな計画に恐れをなした味方の密告によって幕府に計画が露呈したため、仲間の志士らともに逮捕されると、それを受けて尊王攘夷派の水戸藩士を中心とし宇都宮藩兵を含めた6名が「坂下門外の変」を起こした。志士たちは安藤信正が乗った籠をめがけて斬り込むが失敗し、全員斬殺された。
 坂下門外の変の実質的な指導者であった訥庵は伝馬町の獄舎に収監されていたが、その取り調べ方法を含んだ環境は劣悪で、同士たちが次々と獄死していく中、宇都宮藩家老・間瀬和三郎(後の高徳藩藩主・戸田忠至とだただゆき)らによる赦免運動により同年7月8日に出獄し、宇都宮藩邸に預けられた。
 だが、4日後の7月12日早朝に訥庵は急死、47歳でその生涯を終えた。死因は毒殺であったといわれる。
 宇都宮藩は大橋訥庵と藩兵が絡んだこの事件で、非常に難しい対応を迫られていた頃である。訥庵に対する宇都宮藩の一連の動きは非常に気になるところである。


螟蛉塾

 さて、戊辰戦争を経て明治の世になると、幕臣であった栗本は明治政府の禄を食むことを良しとせず野に下った。千葉県香取郡久賀村(現・千葉県香取郡多古町、以下多古町として続ける)の並木栗水りっすい(本名・左門)に身を救われると、栗本は並木栗水の「螟蛉めいれい塾」を手伝うことになった。
 並木栗水は元々は訥庵の思誠塾の塾生で、塾長まで務めた人物である。在塾を7年経た後、年老いた母への孝養のため思誠塾を離れ千葉県香取郡の佐原に移り、安政3年(1856)佐原に螟蛉塾を開塾した。訥庵を師とする栗本にとっては並木栗水は兄弟子ということである。
 その後慶応2年(1866)、並木栗水は事情により郷里の多古町に引っ越し、そこで同名の塾を開いた。多古町には「螟蛉塾跡」という史跡がある。
 栗本は戊辰戦争後に並木栗水のもとに身を寄せると、並木栗水の娘テイと結婚し、螟蛉めいれい塾を継承して始めは佐原の中川岸に開塾、のちに佐原下諏訪の田んぼに囲まれた廃寺、長寿山常照寺に塾を移転した。
 ここで整理すると、
多古町に並木栗水の「新・螟蛉塾」がある。
佐原にあった並木栗水の「元・螟蛉塾」を栗本が継いだ。
隣村同士で、2つの螟蛉塾があったということになる。

 時は明治10年代後半頃、時代はまさに鹿鳴館時代と呼ばれた欧化主義の真っ只中であったが、栗本は西欧化の風潮を好んでいなかった。栗本はこの時代にあってもちょんまげ姿であったという。
 螟蛉塾は塾生に漢学と朱子学を徹底して叩き込み、栗本は塾生達とともに寺で共同生活をした。その教え方は「独誦反復の自習」であり、いわゆる「四書五経」や「史記」、「左伝」を徹底して素読し、日本語に書き下すものだった。
 塾生の中には広辞苑の編纂者で文化勲章受章者の新村出しんむらいずるら後に著名になる人も多かった。新村の著書「新村出全集」内に、塾の様子が書かれている。墓場や焼き場を前にした地面で撃剣の稽古(何度も言うが明治時代の話である)、長く急な石段を何度も往復する風呂の水汲み、便所の掃除を行い、イワシや大根、ごぼうなどの質素な食事に漢詩と詩吟。香取神社への遠足、利根川での舟遊び、諏訪神社の祭、冬の枯田での氷滑り。
 塾があった常照寺は今は無住の寺であるが、境内には寺の縁起の石碑があり、昔ここに漢学塾があり、新村が学んだことが記されている。

 さて、ここまででひとつ「辻褄が合わない」ことがある。

螟蛉と蜻蛉の謎

 新村出は、生前の数多い著書の中で自身がが9歳から12歳まで4年間通ったこの塾を何度も「蜻蛉せいれい塾」と書いている。しかし先述の通り、並木栗水が主宰し栗本が継承した私塾は「螟蛉めいれい塾」である。これらの文字に聞き覚えもないし書いたこともない私ならまだしも、「広辞苑の編纂者」にもなる極めて有能な新村が大切な塾名を間違うだろうか。これは一体どういうことなのか。私はこのことに関して3つの可能性を考えた。

  • (1) 昔の資料、郷土史家、多古町を始めとする人々が漢字を間違えて伝えている。(新村が正しい)
  • (2) 「子ども」だった新村出が漢字を間違えて記憶している。
  • (3) 栗本が並木栗水から「元・螟蛉塾」を継承した際、並木栗水が多古町に移転して開いていた同名の塾「新・螟蛉塾」と被らないように、塾名を「蜻蛉塾」と変えた。

 この中で、(1)と(2)は可能性が少ないと思っている。歴代の偉大な郷土史家の先輩方と、4年も漢学塾で薫陶を受けた偉大な学者の卵であられる新村が、単純な間違いをおこすとはちょっと考えにくい。
 並木栗水の「螟蛉(めいれい)」とは「青虫」の意味である。もう一方の栗本が継承し新たな場所で開いた塾の名は新村曰く「蜻蛉(せいれい)」で、これはトンボ、カゲロウといった意味である。
 上記(3)は私の想像でしかないのだが、栗本は塾を継承するに当たって、青虫から成虫に育っていくその過程を塾名に表し、改称したのではないだろうか。
 ただし、現在伝わっている事実を並べる限りでは、

  • 栗本は並木栗水から「螟蛉(めいれい)」塾を引き継いだ。
  • 弟子であった新村のみが、自らが通った塾を「蜻蛉(せいれい)」塾と呼んでいる。
  • 新村以外のすべての資料、石碑は多古町、佐原の常照寺跡、どれも「螟蛉(めいれい)」塾と記している。

ということが全てである。

 さて、螟蛉塾は明治20年(1887)には閉鎖されたと伝わる。
 その後、栗本は教師となった。

第一高等学校(東京大学)、栃木尋常中学校(宇都宮高校)の教師へ

 栗本は旧制第一高等学校(現・東京大学)の漢文教師となる。夏目漱石や正岡子規らはその厳しい教えを受けた人々である。さらには、明治26年(1893)48歳の頃には栃木尋常中学校(現・宇都宮高校)に漢文教師として赴任したとあるため、漢文の力は相当なものであったことが伺える。
 ちなみにこの年は、栃木尋常中学校は栃木県高等女学校を分離し、河内郡姿川村滝の原の現・宇都宮高校の地に校舎を新築移転した年である。資料によっては栗本が「宇都宮高校の創設者である(藤原町郷土史歴史篇)」「宇都宮高校の校長も務めた(「わが学問生活の70年」新村出)」の記載があるが、問い合わせたところこれはいずれも確認ができなかった(一応、一応は我が母校である)。
 千葉県佐原の塾を閉じてから、どのような経緯を経て宇都宮に来ることになったのかは一次資料が乏しく不明である。ただ、師である大橋訥庵が宇都宮に縁深く、没した地であるということも影響しているのかもしれない。

滝温泉の買収

 栗本は度々訪れていた滝温泉(現在の鬼怒川温泉)の渓谷美を深く愛するようになり、50歳代半ばを過ぎた明治34年(1901)に教師を退職すると、滝温泉の権利を取得してその周辺土地を買収し、明治35年(1902)2月(*1)には妻の実家に置かれていた戸籍も藤原村に移した。
 但し、栗本の資料を辿っていくと、教師を退職した後も住居自体は宇都宮にあり、宇都宮で私塾を経営していたと思われる。鹿沼市出身の歌人・松本仁の随筆「夏素彩の記」の中に、
「晩年(栗本先生は)私塾を開いた。私は父との縁故関係で、この生き残りの徳川幕臣に四書五経の教授を受けたことがある。この厳しい老先生は、少年の私にしょうする如く、歌うが如く、論語の素読を一字一字指さして示してくれた。翁は興じれば、したたか酒を被り深く盃を重ねて、一句を低吟し一句を高唱しながら鬼怒川のほとりをさまようた」
とある。ここで言う「鬼怒川のほとり」は晩年に私塾を開いた宇都宮を流れる鬼怒川のことである。

 (*1) 資料によっては明治27年説と明治35年説がある。栗本は明治26年に宇都宮に来たが、その翌年にいきなり藤原村に戸籍を移すことは考えにくいことに加え、栗本の娘の回想の中に「明治35年の大きな台風があった(筆者注:足尾台風)翌年の春、家族で初めて滝温泉を訪れた」とあるため、今回は明治35年説を採用した。

晩年

 その後滝温泉は大正2年(1913)に運転を開始した鬼怒川水力電気と、その工事専用馬車軌道を改良して敷設された大正6年(1917)の下野軌道によって、一大温泉街へ発展の黎明期を迎えていた。

 大正4年(1915)、栗本は体調を崩したため20年以上住み慣れた宇都宮を離れ、妻の実家である千葉県香取市佐原に引っ越して静養した。
 大正5年(1916)、藤原村の麻屋旅館(現・あさやホテル)の八木澤善八は栗本を訪ね、交渉の結果、栗本は八木澤に「金1万円の10年分割払い」という契約で滝温泉の権利を譲渡し、残った下滝の「花の街」の土地を校地として寄付した。この土地には「瀧尋常小学校」が移転して増築され、後に現在の「日光市立鬼怒川小学校」と発展していく。
 鬼怒川温泉の権利を手放した直後から栗本は著しく体調の衰えを覚えた。当時、栗本の長女・久子は夫とともに伊豆修善寺温泉の梅屋旅館の別館を借り受けて住んでいたが、栗本をそこに招いて療養に専念させた。しかしその甲斐なく翌年の大正6年(1917)2月8日、栗本は72歳の生涯を閉じた。
 栗本は二男六女の子沢山であった。長女・久子は鹿沼市にあった晃南病院の院長の子・木村太郎に嫁いでおり、長男・義雄は晩年まで鬼怒川温泉に居住し、昭和28年(1953)死去している。

栗本氏が揮毫した碑

 栗本が撰文し揮毫した碑が栃木県内に現在も残っている。

廃地開拓之碑

 ・宇都宮市松原2丁目

廃地開拓之碑(栗本義喬揮毫)
廃地開拓之碑

 篆額は宇都宮藩最後の藩主・戸田忠友。撰文、揮毫は栗本によるもので、「福田庄一郎」氏の功績を称えた碑である。
 「宇都宮は明治22年(1889)に近隣の村落を併合して町政を布いたが、ここ戸祭村は昔は樹木が鬱蒼と生い茂り、路は狭く民家はただ数軒のみであった。今、商店が立ち並び昔の面影がどこにもないのはひとえに福田庄一郎氏の功績と言える。彼は戸祭の人で、農業を勧めて農地改革を計り、今の戸祭の発展の基礎を成した」という内容が書かれている。
 明治39年(1964)5月27日建碑。

圓山先生紀恩之碑 (円山信庸先生紀恩之碑)

 ・宇都宮市馬場通り1丁目 二荒山神社境内

圓山先生紀恩之碑
圓山先生紀恩之碑

 この碑は二荒山神社ふたあらやまじんじゃの拝殿に向かって右手の木陰にある。篆額は宇都宮藩最後の藩主・戸田忠友。撰文、揮毫は栗本によるものである。「圓山先生」とは圓山信庸まるやまのぶつねのことで、圓山は江戸の生まれで戸田氏に使えて明治元年(1868)に宇都宮に来た。明治10年代に入って爆発的に広がった国会開設の運動の中で、栃木県の中で先駆けて元老院に国会開設建言書を提出した総代の一人である。明治10年(1877)に宇都宮市二条町に私塾・静倹舎を設立し、2千人の門人を数えた。今の「宇都宮市立西小学校」の初代校長となる。
 大正2年(1913)建碑。

赤羽久五郎頌徳碑(山林復活記念碑)

 ・日光市五十里

山林復活記念碑(赤羽久五郎頌徳碑)
赤羽久五郎頌徳碑(山林復活記念碑)

 五十里集落の長念寺のそばに「赤羽久五郎頌徳碑(山林復活記念碑)」がある。これは五十里村が大正2年2月に建立したもので、「五十里村の赤羽久五郎が茂木藩士の片岡茂と力を合わせ、星治郎輔らの協力によって、当時の官有林を村に下げ戻しするために尽力したところ、明治38年(1904)の判決でもどるようになった」ということが碑に記されている。
 旧茂木藩士である赤羽久五郎は旧五十里村の名主を務め、明治22年から24年までは藤原村の助役も務めている。赤羽は証拠書類の収集と下げ戻し運動に奔走し、このため資産を使い果たしてしまう。そして病のため運動の結果を見ずにこの世を去った。

 「官有林の下げ戻し」について簡単に説明する。
 明治6年(1873)の地租改正で、土地から税収を得ようとした明治政府は土地の所有権、すなわち課税対象者を確定することとした。その過程で所収権が曖昧だった土地はとりあえず「公有地」とされたが、最終的に国の土地「官有地」とされた。
 この時、もともと慣例で近隣住民の共有となっていた入会地(村落が共有する、または共同利用が認められた土地で、薪炭・用材・肥料用の落葉を採取した山林)も官有林とされてしまい、国の所有となった山林から勝手に樹木の伐採をすることが禁じられたため、林業や炭焼を生業とする住民は困窮することになった。
 地元住民が今まで慣例として「なあなあ」でやっていたものが、急に法律で立ち入り禁止になってしまったのである。
 官有地とされた山林原野における入会慣行を求める訴訟は全国的に多発し、大審院まで争われたものもあった。
 そこで政府は、官有に編入したときに所有権があった者に対して、証拠書類が準備できれば返還(下げ戻し)を認めることとした。旧藤原村も証拠書類を揃えて下げ戻し願いを提出したが、書類の不備などからなかなか許可が下りなかった。こういった事情から旧藤原村には今も官有林が多い。

 この碑は道沿いから見えにくく、ガードレールをまたいでヤブに突撃しなくては見つからない。五十里集落で石碑を尋ねると教えていただけるが、残念ながらこれが「何を意味するものなのか」を知る方はいない。
 長念寺の一番奥にある墓碑にも久五郎の徳が記されている。
 ちなみに、栗本が滝温泉の権利を買い取ることができたのは赤羽久五郎の尽力によるものだとういう。

栗本氏を称える碑

 前述したように、日光市鬼怒川温泉滝には今も2つの栗本氏を称える碑が建っている。しかし、この碑の内容はおろか、何のための碑なのか、もっと言えば碑が建っていることさえ知らない地元の方も多い。
 ここで、栗本氏の碑文を文字起こししてみよう。

栗本氏頌徳碑(昭和2年)

栗本義喬先生顕彰碑(昭和2年)

人之可貴者公共心也栗本義喬氏新
潟縣出身來栃木縣住宇陽學徳無備
育英之功績不尠有由藤原村下瀧之
地所有幾十町歩名湯下瀧温泉地亦
當氏之有地及聞瀧小学校敷地選定
進而寄付校地壱千参百餘坪其篤志
可感銘也本村校地之寄付以氏爲嚆
矢焉慈準據本村表彰規定刻石將傳
千古永久余受囑記之

維時昭和貳稔六月 大貫篆額撰文並書

栗本義喬先生顕彰碑(昭和52年)

栗本義喬先生顕彰碑(昭和53年)

昭和五十二年 崴在丁巳夏八月 寒鷗 葭田真斎 約書

故栗本義喬先生は、弘化二年(一八四五)二月 現在の三重県桑名郡矢田に生まれ
戊辰の役には三河以来の旗本として参戦したが 戦敗れて新政府に禄を食むを潔しとせず
野に在って私塾を経営し また創設当時の第一高等学校に教鞭を執られたともあった
その後宇都宮に在住し 縁あって当時の滝温泉(現在の鬼怒川温泉)に来遊して鬼怒川渓谷の美観に
深く傾倒し 明治三十五年弐月には当時滝部落の共有であった滝温泉及び周囲の土地を買収され
ついに戸籍も当地に移されるに至った 以来村民より敬慕され
滝部落の師父として植林興産のため尽力された この頌徳碑は一端を物語るものである
その後大正五年春 温泉を八木澤善八氏に譲渡し
同六年二月伊豆修善寺において逝去 時に七十三歳であった
後年土地は現住者に譲渡されたが その鬼怒川温泉開発の先覚者としての功績を後世に伝えるため
没後六十年を記念して顕彰碑を建立し 以てその霊を慰めるものである

栗本先生顕彰碑協賛会 齋藤茂吉 文 / 佐藤義明 書 / 中田梅吉 刻

参考資料

「ふるさとのしおり~香取の文化・自然~ 会報No.8」 香取郷友会
「鹿沼史林 No.16」 鹿沼史談会
「新村出全集 3,11,13,14」 新村出
「わが学問生活の70年」 新村出
「益田古峯小伝:九州大学「益田文庫」の旧蔵者」 柴田篤
「2018年度千葉県での『広辞苑』関連講演2件-2019年7月関西言語学会講演資料も添えて-」 菅野憲司
「藤原町郷土史歴史篇」

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