今市地震の爪痕(15完) 結びに 日光地震と五十里湖

「日光地震」と「五十里湖」

日光地震

 天和3年(1683)5月23日から9月1日(旧暦であるため現在でいうと6月17日から10月20日。以降新暦の日付で記載する)の間に幾度かに渡って発生した「日光地震」では、同年4月頃から群発地震が相次ぎ、日光地区では6月18日の一日で200回以上の揺れを、10月1日、2日の両日では760回以上の地震を観測した。

 複数回に渡る大きな揺れの規模はマグニチュード6.0から7.0であったとされ、これは今市地震より大きかったと推測されている。
 10月20日の地震によって赤薙山、男体山、葛老山は崩れ、とくに葛老山の崩壊は著しく、男鹿川の流れを完全に堰き止め、さらには折からの豪雨により河川は氾濫し、地震から90日間かけて五十里宿をまるごと飲み込んで「五十里湖」という地震湖を生み出した。湖の湛水高は80mに達したとされている。

五十里湖

 湖は、江戸と会津を結ぶ重要な交易路である会津西街道を埋没させてしまったため、会津藩によって、塞き止めている岩塊を除去する工事が試みられた。しかし1万人以上の人足を集めて行われた工事では、岩盤の岩塊をわずかに切土しただけで、湛水を排水することはできなかった。
 五十里宿の住人は湖岸に避難し、住宅どころか耕地をも失い困窮にあえいだが一致団結し、湖上の舟による運送などの新たな業種を組み入れながら生活した。
 そして、水を抜こうと命を賭しても人力ではまるで歯が立たなかった湖の水は、ちょうど40年後の享保8年(1723)8月10日、数日降り続いた大雨の影響で決壊、海抜けした。
 住民は長い間湖底に沈んでいた旧地を回復し、災害復興への道のりを歩み始めた。

五十里洪水

 一方、俗に「五十里洪水」と呼ばれるその海抜けの水量と土砂は凄まじく、直下流の川治村や藤原村は全村壊滅と言われるほどの大打撃を受け、現在の氏家や高根沢、宇都宮の簗瀬、横川、平出、桑島などを含む下流70ヶ村、およそ12,000人もの人命や牛馬を飲みこんだといわれている。
 この洪水被害を恐れた当時の人々は、衣川、絹川などと呼ばれていたこの川を「鬼怒川」という名称で呼ぶようになったという。

爪痕

 今回の研究で発表したように、今市地震では今市町のあちこちで山は崩れ地は裂け、73年経った今でもその爪痕を残している。これらは、「ただの昔話」ではない。記憶に新しい東北地方太平洋沖地震のように、治山や治水、砂防の技術が進んでも、天災は時に、人類がコツコツと積み上げてきたささやかな生活を一瞬で奪ってしまう。

 今回調べた「今市地震の爪痕」を巡ると、その場所はとても寂しい場所であることに気づく。ずいぶん昔のことだけれど、でもたった73年前のことだ。人々はその場所を恐れ、その恐怖は子々孫々に伝えられ、現在でも住宅地にはなりにくいのだろう。僕は波打った地面を歩き、人命が失われた場所で手を合わせた。
 我々は、「忘れた頃にやってくる」と先人が伝えたその教訓を胸にし、決して侮らず、日々からの備えを怠ってはならないのだと思う。

 結びに。
 昔のことを調べ、尋ねるにあたり、心ならずとも思い出したくもないことを思い出せてしまい、それでも細かくいろいろなことを教えてくださった皆様方に深く感謝致します。

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