日光街道を歩く12 第9日目

宇都宮宿ー徳次郎宿ー大沢宿ー今市宿

2019.03.12
JR宇都宮駅ー自宅
距離37.72 km 時間8:42:58 高度上昇342m

自宅から電車に乗って宇都宮駅へ。そこから歩いて今市の自宅へと向かう。慣れしたんだ道ではあるが、クルマで走り去る街並みと徒歩のそれとでは目につく場所が全く違う。

宇都宮宿

 下野最大の城下町であり、日光街道と奥州街道の分岐点として交通の要所であった。

宝蔵寺

天安元年(857)、慈覚大師の創建。宇都宮氏寄進の楼門の中に「時の鐘」がある。

株式会社上野

 蔵造りの商家が残る。ここは上野百貨店を経営していた上野一族の本社である。上野は油を商い、副産物の油かすを肥料として販売し財を成した。

延命院

 文亀4年(1504)に寺と宇都宮市最古の木造建託物の一つ地蔵堂を建立し延命院と改名。蒲生君平が学問を学んだ「蒲生君平修学の寺碑」がある。蒲生君平は住職良快から読み書きの手ほどきを受けた。

桂林寺

 桂林寺は応永3年(1396)宇都宮家第12代当主満綱が建立。元和6年(1620)に現在の場所に移された。戊辰戦争の宇都宮の戦いで長州兵と大垣兵が立て籠もり会津藩の焼き討ちにあったがその後再建された。境内には蒲生君平、岡田貴吾らの墓がある。このあたりが宇都宮宿の北の入り口であり、かつては木戸があった。日光道中分間延絵図(にっこうどうちゅうぶんけんのべえず)には宇都宮の一里塚が描かれているが今はない。

鉤の手

 清住町通りの鉤の手。宇都宮城の城下町であるため、城に向かう道は防備上、鉤の手になっている。ここでクルマが自然と渋滞することからもその効果はよく分かる。
 これらの鉤の手は他にも宇都宮の材木町通りのところなどいろいろなところに採用されている。

宝の木

  栃木医療センター(旧国立栃木病院)の守衛所横に宝の木がある。和名は「児の手柏 ( コ ノテカシワ)」、樹齢450年以上と推定されている。この地域の「宝木(たからぎ)」の地名の由来となったという。

 明治時代、この戸祭地区(当時は国本村大字戸祭)には旧日本陸軍の第十四師団が司令部として駐屯し、太平洋戦争後にその跡地は公共施設として転用された。このため戸祭地区には公共施設が多い。
 栃木県体育館(体育館本館、別館、プール館、武道館、弓道場、管理棟)や国立栃木病院は第十四師団練兵場および師団司令部の跡地に開かれた施設であり、激化する空襲を避け同司令部が移駐する予定だった地下壕のあった八幡山には八幡山公園や宇都宮競輪場などが開かれた。

上戸祭の一里塚

 日本橋から28里の一里塚で、昭和58年(1983)に修復整備された。西側の塚には檜が植えられているが、東の塚は半壊している。

静桜

 奥州に落ち延びた義経を追う静御前が桜でできた杖をさしたら、桜の枝が繁り大木になったという伝説がある。民家の庭に生えている桜の木は11代目になるという。一枝に八重と一重の桜が咲き年によっては細い花びらの入った兜のような珍しい花も咲く。
 またそばの竹林には鏡ヶ池がある。静御前がその池に鏡を落としてしまったという伝説があり、祠が祀られている。
 これらはすべて民家の私有地であるが、運良く庭仕事をされていた方にご案内していただいた。

光明寺

 文禄年間(1592~96)、野沢の石塚に玉塔院を建立したのに始まり、寛文11年(1671)にこの地に移された。寛永年間(1624~1644)に家光が日光参詣をしたときに、お茶を設けたという御茶屋跡がある。また、寺の前には立場があったといわれている。

高谷林の一里塚

 日本橋から29番目で江戸時代の面影が残る一里塚。東の塚には大きな杉、西側の塚には桜と檜が生えている。塚は街道より高い所にある。

六合接合井(6号せつごうせい)

 大正2年(1913)12月に着工し大正5年(1916)年3月に竣工した、わが国で31番目となる近代水道施設。第六号接合井は、今市浄水場で処理された水を約26㎞・標高差240mの戸祭配水場まで送水する際に、送水管にかかる水圧を緩和するため6箇所設置された接合井の一つ。これらの接合井は、標高が約30m下がる毎に1箇所設置された。

 昭和24年(1949)の今市地震による被害により、当時のまま現存するのはこの第六号接合井だけでである。日光街道沿いの小高い丘の上に立つ八角形の建屋は、赤煉瓦と地元産大谷石の白い隅石による構造で、威風堂々とした風格が感じられる。国登録有形文化財。

接合井(せつごうせい)とは

接合井とは送水管の分岐点や合流点、屈曲点などに設置される桝(ます)を言うが、この「六号接合井」は少し変わった役割を果たしている。今市浄水場からスタートする水流は、放っておくと宇都宮にたどり着くまでにかなりの水流速度になってしまい、送水管を痛めたり破壊する恐れがある。
 それを防ぐために、きわめて簡単に言うと(説明が難しい)、標高が30m下がるごとに井戸のようなものを掘り、そこに一度水を落として、溢れた水をまた流し始めるという工程を踏ませる。
 これはそのあたりの川にもある人口の小さな滝のようなもの。あるいは、風呂桶のお湯を高いところからそのまま湯船に注ぐとジョボジョボと大きな音を立てて落ちるが、途中に掌を置いてそこに当ててやると、落ちる水流が穏やかになる効果と似ている。

徳次郎宿

 とくじら宿。徳次郎宿は上、中、下の3宿があり、纏めて一つと数えることが多いが、問屋は各宿にそれぞれあり月の十日毎に交代した。
 近年徳次郎宿の歩道上には、徳次郎の昔を今に伝える歴史的な案内板が多く建てられ、ここに住む人たちの歴史に対する真摯な姿勢がうかがえる。

智賀都神社

 ちかつ神社。宝亀9年(778)に日光二荒山神社から御神体を勧請して千勝森(ちかつのもり)に祀ったという歴史ある神社で、徳川将軍家の崇敬社としても寄進を受けていた。境内にある2本のけやきは古文書にも描かれるけやきであり、樹齢700年といわれている。徳次郎3宿の総鎮守。

伝法寺

 創建は貞和4年(1348)後醍醐天皇が開基となり大同妙哲が開山したのが始まりと伝えられている。当初は臨済宗だったが江戸時代初期に曹洞宗に改宗した。向かって左側の山中にある妙哲禅師の墓は、案内板によると
「妙哲禅師は、鎌倉時代に奥州(現・東北地方)に生まれ、雲厳寺(黒羽町)の仏国国師の弟子となり、この伝法寺や妙雲寺(塩原町)・同慶寺(宇都宮市竹下町)を開き、下野国内に臨済宗をひろめた中心人物である。」
とある。

石那田の一里塚

 「六本木一里塚」とも呼ばれ、江戸から30里の一里塚。東の塚だけが残り、修復整備された。塚の上には樹木の代わりに、石の標柱が建てられている。西の塚はないが、並木の外側の畑に塚らしきものがある。
 『日光道中分間延絵図』に描かれている天保11年(1840)と刻まれた十九夜塔の如意輪観音がある。

石那田八坂神社

 日光街道沿いには御仮屋があり、そこから街道を外れ西へ1kmほど進むと本殿がある。明暦元年(1655)創建で石那田村の鎮守。7月の天王祭は厄除けの牛頭天王祭で、猿田彦大神を先頭に屋台や神輿が渡御する。 

お願い地蔵

 大谷石でできた石仏のため風化が激しいが、享保15年(1730)の銘がある阿弥陀像。この石仏に願をかけ3個のまんじゅう型の石のいずれかを持ち上げて、軽く感じれば願いが叶うといわれている。

上小池の一里塚

 新渡神社から日光街道を挟んで反対側の民家の前に確認できる。案内板もないのでわかりにくい。日本橋から31里の一里塚。西の塚は直径約3m、高さ約1.8m。東の塚は開田のため破壊され痕跡がない。江戸時代には松が植えられていた。

杉並木寄進碑

 ここからが日光神領となる。
 寄進碑には
「下野国 都賀郡 小倉村 同国 河内郡 大沢村 同国 同郡 大桑村 自此三所至 日光二十余年之間 植杉於 路傍左右井山中 十余里 以奉寄進 東照宮 慶安元年戊子(1648)4月17日 従五位下松平平右衛門大夫源正綱」
とあり、現在でもしっかり判読できる。

 徳川家譜代の家臣で武州・川越城主の松平正綱・信綱(正綱の甥で養子)父子が寛永2年(1625)から二十数年かけて、紀州熊野から取り寄せた20数万本余りの杉苗を日光道中・壬生街道・会津西街道の三街道の両側に延長37kmにわたって植えた。
 この寄進碑は日光神領との境界にあったので境石(さかいいし)とも呼ばれており、同様の碑は日光神橋前、日光市大桑、文挟(小倉)にも建てられている。

大沢宿

 元和3年(1617)、家康の日光東照宮の遍座に伴い宿駅となった。宿並は度重なる大火により焼失してしまった。

龍蔵寺

 大沢山密厳院と号する真言宗の寺院。建仁2年(1660)創建と伝え、当初は木和田島にあったが、江戸時代に大沢小学校付近に移り、明治になって現在地に移転した。
 境内には江戸時代の石造物のほか、最盛期には花穂(かすい)が六尺(1.8m)にもなる「六尺藤」が有名である。

水無の一里塚

 日本橋から32番目の一里塚で、左右とも塚があり、西の塚には木がなく、東の塚に2本の杉が生えている。水無と大沢の中間地点にある。日光杉並木街道中にはあわせて6ヶ所、11基の一里塚があるが、すべて杉である。特別史跡、特別天然記念物。

来迎寺

 永正14年(1517)全暁の創建。浄土宗のお寺で今市宿の如来寺の末寺。斎藤嘉平墓(下野森友村の名主。戊辰戦争時の明治元年7月12日佐賀藩兵に殺害された)がある。
 参道には享保21年(1736)安永2年(1773)などの四基の十九夜観音が並ぶ。

森友瀧尾神社

 大正5年(1916)の遍座。社殿には縁結び、子宝の大注連縄がかけられ、「三春の瀧桜」という枝垂れ桜がある。

七本桜の一里塚

 両塚を残している。北側の太い杉の根元に大人3-4人ほど入れる空洞があり、「並木ホテル」と呼ばれた。古くは雨宿りする旅人も多かったことと推察される。

追分地蔵

 日光市の有形文化財。一番古い記録は亨保年間、八代将軍徳川吉宗の日光社参の時には既に現地点に安置されていたというものくらいで、いつ、誰が、何のためにこの大きな地蔵を造立したかは不明である。

 追分地蔵の像形は丸彫の坐像で、手印は密教の胎蔵界大日如来が結ぶ法界定印をとっている。一般的に地蔵は右手に錫杖、左手に宝珠の姿が最も多く、次いで合掌像が挙げられる。その他、六地蔵の宝珠に説法印、錫杖に与願印などがあるが、追分地蔵に見られる法界定印は日光では一般的であるものの、他地では非常に珍しい形である。
 これにより、追分地蔵は「型」が一緒である憾満ガ淵から流れ着いた親地蔵であるなどの伝承が生まれたのだろうと推察される。しかし、河を10kmあまり流れてきた割にはほとんど像に損壊が無い所、また憾満ガ淵の地蔵とは石質が違うことから考えると、流れついたとの伝承は懐疑的にならざるを得ない。

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