日光街道を歩く14 その後

旅を終えて

 ここまで10日間に渡り合計の234kmの道のりを歩いてきたわけだが、旅の終わりにその感想を書いてみる。

首都トーキョーの光と影

 東京は開発が進みに進んだ大都会であるが、それでも江戸の頃の歴史をしっかり満喫することができた。多くの先人達の働きかけのおかげで、「開発を進めながらも後世に遺しておかなければならない史跡」がしっかり残っていて、由来も語られている。しかもそれらの史跡は「負」の側面も多く含まれていて、思わず神妙に手を合わせてしまう場所も多かった。

 初めはのんきに、御朱印、歴史めぐり!と歩き始めた観光であったが、途中で、と言うより旅の始まりの千手あたりから興味が変わってきた。歴史は、華やかなものばかりではないという当たり前のことに気がついたからだ。

 ある道中では今も1泊2千円前後で宿泊できる簡易宿が多く、現在でもそこでは日雇いの身元不明な労働者が毎日貸し切って居住しているという。そして時には亡くなってしまう。その死を知らせるべき人はどこにもいない。今それらの宿は外国人のバックパッカーでも賑わっているという。

 そしてホームレスも多い。公園にはダンボールハウスが並べられ、可愛らしいウサギを型どったテーブルの上では彼らが何らかのシンプルな賭け事に興じている。穏やかに陽の光が降り注ぐ平和な公園のゴミ箱には、4リットル入り甲類焼酎の空のペットボトルがいくつか放り込まれている。

 僕が歩いたときのその地には、母子のホームレスがいた。「母子」である。
 小学校入学くらいだと思われる小さな女の子が着るピンクのスウェットは、かなり黄ばみ、茶ばみ、何より寸が足りていない。母子ともに髪の毛は油を撫で付けたようにしっとりとし、形容し難い寝癖で髪の毛が膨らんでいた。1月の寒い乾燥した風の中、お互いが体育座りの体勢でしっかり抱き合って身じろぎもしない。カラースプレーで派手な落書きがされた、潰れた商店街のシャッターに背を持たれ、その軒下で、二人の体温で暖を取っていた。
 互いの肩に顔をうずめる母子の表情は伺いしれない。周りにはおもちゃになり得るものも、手荷物も、食べ物も飲み物もそれらの空いたものさえも、何も無かった。世界有数の豊かな先進国・日本にあって、子どもがホームレスになるなんて想像したことも無かった。振り返れば東京スカイツリーが見え、一軒家ほどの値段の高級車がすぐ側を走り抜ける国道沿いの話だ。彼女たちが今夜どうするのか、この後どうするのか、何を食べるのか…。

 もし彼女たちの目の前に小銭が入った皿や空き缶があったならば、僕は迷わず少額の金銭を入れただろう。でも何もなかった。僕は、彼女たちがその僕の思いつきを喜ぶのか怒るのかの判別もつかず、更には、「施し」を考えてる自分がとてつもなく失礼な存在に思え、足早にその場を立ち去った。結局のところ僕は、彼女たちを見つけてから、驚き、立ち去るまで、歩みの速度を緩めもしなかった。そしてその時にすべきであった正解は今もわからない。
 僕の想像力や知っている世界は、余りにも小さく余りにも画一的で、そして無力だ。

暗い気持ち

 宿場の外れには見せしめのための刑場が置かれ、現在では考えられない理由で多くの人がその生命を奪われた。「みせしめ」であるため、それらの刑は苦痛と残虐さを伴うものだった。

 当時ヨーロッパを席巻した、人権を声高らかに唱える「何とか革命」は、その頃の日本にはまだ影響を及ぼしておらず、従って「人権」云々を唱える為政者は皆無だった。

 殆どの人が貧しかった時代の、悲運な女性の生前と死後の余りに悲しい話。これらは調べれば調べる程に陰鬱な気持ちになった。この項目は書いてても気分が滅入るため、当初よりかなり大幅に「減筆訂正」した。おぼろげながら理解し始めたことだからといって、いつでも声高らかに話していいことではないこともある。

物語

 埼玉県に入ると、しばらく牧歌的な歴史が続く。「偉い武将がお参りした。将軍が腰掛けた岩だ。祈念したら病が治ったイボがとれた足腰が健康になった。お告げがあった、カラフルな雲がたなびいた」などなど。
 自治体の発行する無料の観光用パンフレット、これは今回の旅には非常に重宝した。自治体はこぞって我が街の見るべき誇らしい歴史を羅列した。善を成した素晴らしい名主や武将や学者の墓は残って口伝もある。地元の誉れだ。

 だがしかし、僕が知りたいのは、その善行を、影で支えた無名の市民の生き方なのだ。
 実際の所、人々が生きていくためにはそのような牧歌的な話、おとぎ話のような話では世の中は成り立たない。本来はもっと辛く悲しい話もあったはずだが、その跡はあまり残っていない。そんな歴史をパンフレットとして観光客に配る自治体なんてない。
 それらは大抵きれいに化粧直しをされ、整備され、大都会東京のベッドタウンとなっている。

並木道

 江戸時代、道中は旅人を風雨や日射から守るため、並木の植樹が奨励され、街道に沿って植えられていた松やヒノキなどの並木は日光のみならず街道のあちこちで見られた。並木のせいで日照不足に陥った田んぼは年貢を免除されるなど、手厚い保護も受けられた。
 第二次世界大戦では、鉄や木の需要が高まり、貴重な梵鐘や銅像は溶かされ、鍋やベーゴマまでも供出され武器になった。絵葉書や絵画にも描かれた「中田の松並木」や「権現堂堤の桜並木」は伐採され、油を取ったり薪になったりした。
 日光杉並木も船を作るために伐採の機運が高まったこともあるが、老木のため樹木の中心部に空洞があるものが多数で、船を建造するのには適さなかったため、その案はなし崩し的になり終戦を迎えた。
 さらに時代が進むと同時に、主要都市をつなぐ旧街道は高度経済成長に伴い道路の「拡幅」が進んだ。モータリゼーションの普及により、拡幅で樹木は伐採され、排気ガスで木々は枯れた。

 人の繁栄は、大なり小なり何かの犠牲の上に成り立っている。その繁栄のためには、苦渋の思いながらも「歴史的にまずまず価値がある」程度のものは犠牲になる。
 失ってしまったものはもう二度ともとには戻らないのは、誰もが知っていることなのに。 

廃仏毀釈

 明治の世になると、天皇の神格化を目的とした神道国教化が唱えられ、神仏分離令が出された。これをきっかけに廃仏毀釈運動が起こり、仏教は排斥され、寺や貴重な仏像、経典は焼かれ、壊された。特に西日本では暴力的なまでに行われた、極めて忌まわしい仏教破壊運動である。今でも寺と神社が隣接して建っていることが多いのもこの名残である。

 本文でも触れたが、明治になって明治天皇が東北巡幸の折に日光に立ち寄った際、同行の木戸孝允が日光の荒廃を見たときの「神仏分離令なるものは文化破壊の結果を伴うに過ぎない愚挙だった」の台詞がまさに的を射ている。八百万の神、本地仏など神仏習合で時を刻んできた日本の思想の根底を乱暴に揺るがす愚挙であった。
 これらの痕跡は、古い街道を歩いていると様々な形で目にすることができる。首の欠けた石仏は非常に多く見かける。現代よりはるかに信仰が深い意味を持っていた時代に、仏像を破壊するようなことを畏れずにできるなんて。

そして日光は。

 日光市は観光名所が多く、駅や観光案内所に行けばお金をかけたしっかりしたパンフレットが揃っているし、観光協会のサイトもページが豊富である。世界遺産の「日光の社寺」を始めとし、有名な温泉、山や湖、足尾銅山など、紹介するものはたくさんある。しかし、それがあまりに多すぎるせいなのか、「どれを見ても何を見ても一緒」の上辺の内容に終始しているように感じてしまう。それは理解できる。初めて日光を訪れる観光客に深い事情の郷土史の説明なんてしても意味がない。

 しかし、一例を上げると「一里塚」であるが、現在、旧今市市には正式に一里塚と確認されているものだけでも6つ、その他に2つの「これがそうであったと思われる」一里塚がある。それを説明する案内板は、「間違っている」か「朽ち果てている」か「間違っている上に朽ち果てている」ものが多い。
 多数出版されている「日光街道」の案内本を片手に日本橋から歩いて来る人は少なからずいる。そして、この日光を歩いた人たちが満足する情報を日光市は提供していない。これはこの街が持っているポテンシャルからすると、圧倒的に他市を下回ると言っていい。

あとがき

 人は自らの作り上げた有形無形の偉大な歴史的財産を、人間自身の手で何度も破壊する愚挙を犯し続けてきた。政治の都合で、集まった人たちの信条で、他人の文化を理解せずに、世界中で多くの歴史的遺物が破壊された。先の大戦で焼け野原になった土地からは人命は言わずもがな、貴重なものがたくさん失われた。今我々が享受している平和は、あれからたった70余年しか経過していない。

 日光は空襲の被害が無かったため、比較的多くの歴史的遺物を残しているとも言える。しかし今の子ども達は、いま自分たちが住む街の「歴史的遺物」のことをどれだけ知っているのだろうか。

 インターネットの普及によって、子どもは家にいながら情報を得て、買い物をして、ネットに繋がったゲーム機で会話をしながらゲームをしている。子どもを対象にした不幸な事件が重なったこともあって、子どもは表で遊ぶことができなくなった。放課後のスポーツは親の送迎が必須条件であり、神社で缶蹴りをしたり、川で釣りをしたり、学校帰りに駄菓子屋で買い食いをすることもない。学校教育の中で、山登りやハイキング、地元の史跡巡りに行くなんて聞いたことがない。組体操が「あぶない」という理由で中止になる現代だ。大人がそうさせたのだ。
 そして年頃になるとみんなが都会に出て行きたがる。そのこと自体には全く問題はない。
 しかし、郷土のことを知らずに大人になって、振り返って歴史的遺物を見たときに、その貴重さに気づき、保護しなくてはと思う時が来るのだろうか。住んでいる町にスターバックスがあるとかウーバーイーツがあるとかなんかではなく(あったらいいね)、郷土の誇りに胸を張れるのだろうかとすこし心配になる。

 今回の課題で、今まで見聞きして、おぼろげながら考えたこと、理解したと思っていたことを文章で表すことはとても面白かった。他人にわかりやすく伝えようとすることはすなわち、自分の頭でしっかり整理して、噛み砕くことが必要であるからだ。時間があるならこれらをもっともっと深く掘り下げていってみたいとも思うが、なにせ興味は後から後から尽きずに湧き出てくるものだから、これは定かではない。

 これをもって日光街道の旅の終わりとする。

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