日光街道を歩く11 第8日目

石橋宿ー雀宮宿ー宇都宮宿

2019.03.05
JR石橋駅ーJR宇都宮駅
距離23.92 km 時間5:31:44 高度上昇105m

第8日目は石橋宿から宇都宮宿までを歩く。高度上昇量が急に増すことが数字上からわかるが、日光に住んでいる自分には「真っ平ら」としか思えない。

石橋宿

 「村名の起こり定かならざれど、むかし池上明神前に水神あり。今は土橋なれど土人は石の橋という。これ村名の起こりなれぞ」。古書にはこうあるが、「池上明神」がどこなのかは判明していない。

開雲寺

 真言宗智山派。天応元年(781)、下野薬師寺戒壇院5世の恵雲(えうん)律師の開基。

 徳川将軍の日光社参のとき、休息所となった。3代将軍家光の社参の際に境内に御殿所が立てられ、後に下賜された。そのため寺門に葵を用い、土塀が城郭様式で御殿塀には矢狭間や鉄砲狭間がある。寺の本堂・庫裡・山門などは安政年間(1854~60)の再建である。

鞘堂地蔵尊

 天授6年(1380)に宇都宮氏との領地争いが発端で、小山義政が宇都宮基綱を殺害したことにより、鎌倉公方の足利氏満が義政追討例を出した。この「小山義政の乱」と呼ばれる戦いは3度におよび、結局、小山義政は追討され小山市嫡流は滅亡する。「小山義政の乱小山・宇都宮合戦」の際、戦死した兵の鞘を集めて埋め、そこにお堂を建て地蔵を安置した。この鞘を集めた「鞘堂」地蔵の名前がそのままこのあたりの地名になった。
 その由来こそ痛ましいが、明治以降は安産神社として信仰され、無事に赤ちゃんが生まれると男なら白、女なら赤の細い紐を奉納するのが習わしとなっている。

茂原観音

  伝承によると、室町時代中期、この近くに住んでいた宇都宮氏の家居・裳原遠江が仏師に観音像を刻ませ、安置したのが始まりという。

 お堂には、間引き図絵馬や、雀宮宿の繁栄の様子などを描いた絵馬が数多く奉納されている。お堂の観音さまは秘仏で不定期に公開されている。江戸時代から現在に至る多くの参詣者の信仰が厚かったことをうかがわせる。

 御朱印は観音堂の前の個人のお宅でいただける。アメやお茶などをもらってゆっくりして、猫と遊んだ。

雀宮宿

 雀宮宿は、江戸から16番目の宿場で、街道の東西に江戸時代の短冊形の地割りがほぼ当時のまま残っている。度重なる国道4号線の拡幅工事で、本陣跡などは見る影もない。 

雀宮神社

 古くは雀明神といい、社伝では長徳元年(995)、陸奥の守に任ぜられた藤原実方が赴任の途中、ここで休息し陸奥に向かった。妻の綾女もその後を追うが、ここまで来て病死する。その遺言で持っていた宝珠を埋め、産土神として祀ったのが神社の始まり。その後、実方も赴任地の陸奥で死に、その霊魂が雀となりこの地に飛来した。そこで綾女と実方の2人を合祀し雀宮神社と称したという。

 正徳3年(1713)に東山天皇から金文字で「雀宮」と書かれた勅額が下賜されたため、将軍や諸大名は下乗して参拝した。

不動前不動尊

 旧奥州街道と日光街道との追分にあり、宇都宮に入る目印だった。奥州街道はここを右に進み、田川沿いを北上する道だったという。宇都宮友綱の建立といわれる不動明王は高さ50㎝の石像。

 道標は昭和3年(1928)に建てられた。「右奥州・日光街道、左裁判所、正面東京に至る」。 

蒲生君平碑

 明治天皇の命により、宇都宮藩知事の戸田忠友が明治2年(1869)に蒲生君平の遺功を追賞し建立。蒲生君平は儒学者であり、その著作や行動が明治維新に大きく貢献したと言われている。蒲生君平の墓は桂林寺にあり、蒲生神社は八幡山にある。

一向寺

 境内に阿弥陀堂があり、銅像阿弥陀如来座像が安置されている。この像は、応永12年(1405)の製作で、「汗かき阿弥陀」と呼ばれ、大事件が起こる際には汗をかくと伝えられている。国指定重要文化財。拝観は土曜・日曜のみ。

六道の辻

 慶応4年(1868)4月23日、戊辰戦争で土方歳三と会津藩士秋月登之助率いる旧幕府軍が新政府軍と宇都宮城下で激突した。19日に宇都宮城を落城させた旧幕府軍はここにとどまったが、奪還しようとする新政府軍との戦闘は激烈で、この戦闘の結果、新政府軍は宇都宮を再び掌握した。

 この場所は当時の城下町の城下入り口の一つで、栃木街道と壬生街道が合流する交通の要所であった。
 名称は「戊辰之役戦士墓」。祀られているのは旧幕府軍の戦死者で、建碑したのは新政府軍の宇都宮藩戸田三男以下14名の名が刻まれている。これは一般的にありえないことである。

 会津での戦闘中、戸田三男隊は捕縛した長岡藩家老、山本帯刀とその部下を処刑するが、山本は自分の刀と隊が所持していた軍用費を戸田に差し出し、「これを貴藩に提供するので、相当の費用に充てられんことを」と遺して死についた。
 戸田三男は宇都宮に戻ったあとの明治7年、この金を使って旧幕府軍の戦死者の墓地を整理し、建碑した。武門の誉れの出来事である。

 以後100年以上に渡り、この碑は地元住民に手厚く見守られ、現在に至る。

報恩寺

 戊辰戦争の戦禍を免れた、江戸時代初期に建立された美しい山門がある。奥平家昌の正室による寛永16年(1639)開山といわれるが、鎌倉時代かそれ以前と見られる大五輪塔があることから、古くは別の寺があったといわれる。鉄製板塔婆は現存する日本最古の鉄製の塔婆といわれている。戊辰戦争で戦死した官軍の薩摩藩や長州・大垣諸藩の「戦死烈士之墓」がある。

二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)

 ふたあらやま神社。宇都宮市の中心部、明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座する。宇都宮の人も読み方を間違うが、日光の二荒山(ふたらさん)神社とは読み方も祭神も別である。ただしこの2社の関わりや成り立ちには諸説あり、一概に無関係であるとは言い難い。

 慶応4年(1868)4月19日の早朝、後の戊辰戦争と言われる戦いで、土方歳三と会津藩士秋月登之助率いる軍が宇都宮城へと侵攻した。宇都宮大明神(現在の宇都宮二荒山神社)は城下に放たれた炎の延焼で焼け落ちてしまった。

 明治元年の神仏判然令により、仏教的な用語である「大明神」から名を変える動きが強まり、二荒山神社と呼称を統一した。

旧篠原家住宅

 入館料100円で、至れり尽くせりの説明をしていただき、また結構な枚数の資料のコピーまでいただけた。
 江戸時代から続く豪商で、明治28年に建てられた母屋と石蔵、黒漆喰や大谷石を用いた外壁、店先の格子など、主屋と新蔵が国の重要文化財に指定されている。

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