日光街道を歩く02 序章(2)

五街道

 江戸時代、慶長6年(1601)、幕府は江戸と全国を結ぶ道路の整備を開始した。
東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、そして我らが日光街道という5つの街道。

これらは軍用道や各地の産物を効率的に江戸まで運ぶ役割を持った。

 整備された当初は「海道」と呼ばれたが、正徳6年(1716)の街道呼称整備で「道中」と改められた。
海道とはすなわち「東海地方の海沿いの道」というのがもともとの意味であり、それに対して「海のない下野や甲州に海道はおかしい」と「道中にすべき」の建白書を幕府に提出したのは朱子学者の新井白石である。

 時代は下り、現在の我々はこれらの道を「街道」と呼んでいるが、これには正式なお触れなどは全く無く、いつごろからその呼び方になったのかは諸説ある。

街道名 (完成年度)宿場数距離概要
東海道 寛永6 (1624)53次492km江戸・日本橋〜京都三条大橋を海沿いの道でつなぐ。箱根と新居(あらい)に関所。 現在の国道1号線。
日光街道 寛永13 (1636)21次144km日光東照宮への参拝道としての役割を持ち、五街道の中でも異色の性格。ちなみに2代将軍秀忠の東照宮造営は1617年。その後、家光による豪華絢爛な東照宮への改築(寛永の大造(だいぞう)(たい))は1634年。
奥州街道 正保3 (1646)27次192km宇都宮から分岐し白河へ向かう。青森県まで続く道として認識されているが、幕府管轄は白河まで。

中山道 元禄7 (1694)69次526km江戸〜京都を内陸でつなぐルート。徳川家は天皇家との親戚関係を継続させるために、皇族や公家の娘を将軍の夫人にしてきた。お姫様たちはいずれも中山道を通って江戸に向かったため、中山道は姫街道とも呼ばれてる。 だが、木曽のかけはし(木曽川に渡した橋ではない)、太田の渡し、碓氷峠など難所が多い。東海道より40kmほど長く、宿場も16多い。
東海道に比べ大きな河の氾濫による長期の川止めの可能性が少なく、また宿賃も2割ほど安いこともあり、往来は盛んであった。
甲州街道 明和9 (1772)45次209km甲府まで行き、下諏訪で中山道と合流。江戸で有事の際に、服部半蔵が江戸城半蔵門から将軍を甲府城まで脱出させる道であったと言われる。

日光に至る道

 江戸から日光に至る道はもちろん日光街道がメインではあるが、宿の関係や、単純に距離の短さ、その他の利便さからいくつか日光に至る道が整備されている。

 元禄2年(1689)に松尾芭蕉が、明治11年(1878)にはイギリスの女性旅行家イザベラ・バードが東京を出立、日光街道を北上し、日光にも立ち寄った。それらの様子は現在でもたくさんの書物で解説され、往時の風景を想像することができる。

日光街道

 日光街道は、江戸時代に整備された五街道の一つで、江戸日本橋から日光山内までを結ぶ144km、二十一次の宿を備える街道である。現在の地名で言うと、東京都、埼玉県、茨城県、栃木県の一都三県を結ぶ街道で、栃木県宇都宮までは奥州街道も兼ねている。五街道の中では整備は早い方で、江戸ー京都を結ぶ中山道に次いで完成した。

 完成当時は「日光海道」と呼ばれたが、幕府は正徳六年(1716)に「日光道中」と呼称を改めた。今回は現在一般的に使われる「日光街道」と呼ぶことにする。

日光御成街道

 江戸を出立し日光社参する歴代徳川将軍は、庶民が泊まる旅籠ではなく城に宿泊するため、その関係からコースは江戸ー岩淵ー川口ー岩槻を経て幸手で日光街道と合流した。この道は「日光御成街道(にっこうおなりかいどう)」と呼ばれた。

 徳川幕府には15人の将軍がいたが、そのうち日光社参を行ったのは2代秀忠、3代家光、4代家綱、8代吉宗、10代家治、12代家慶の6人だけで、総回数19回のうち家光が10回と特筆すべき最多を誇る。

例幣使街道

 例幣使(天皇の代理として、朝廷から神への毎年の捧げものを指す例幣を納めに派遣された勅使)が日光東照宮に幣帛(へいはく)を奉献するための道は「例幣使街道(れいへいしかいどう)」と呼ばれ、中山道の倉賀野宿(群馬県高崎市)で分かれ、足利市、栃木市、佐野市、鹿沼市と続き今市宿で日光街道と合流した。

壬生通(日光西街道)

 日本に於ける紀行文の代表作品とされる「おくのほそ道」。その著者松尾芭蕉が河合曽良を伴い日光を訪れたのは、今から330年ほど前の元禄2年(1689)のことである。東京深川から隅田川を(現在の東武浅草駅を左手に見ながら)北上し、千住大橋から日光街道に降り立ちその旅は始まった。芭蕉一行は小山市の喜沢追分(きざわおいわけ)を左に折れ、壬生通(通称:日光西街道)に入り、途中、鹿沼市楡木で例幣使街道と合流する道を通り今市から日光に入った。

会津西街道

 会津西街道は江戸時代に会津藩主・保科正之によって整備された。参勤交代や日光社参に使われ、会津の若松城下から大内宿や五十里(いかり)、鬼怒川温泉を通り今市宿に至る街道である。

 保科正之は会津松平家の初代、会津藩の初代藩主であり、将軍徳川家康の孫(徳川家光の異母兄弟)である。非常に有能で家光からの信頼も厚く、幕府の大老を務め、明暦の大火でも手腕を発揮した。会津藩は歴代徳川家に忠臣を誓い、戊辰戦争では白虎隊悲話が語られるなど、最後まで新政府軍を相手に奮戦した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました