藤原町の廃校 (旧藤原町の廃校 序章 01)

「必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」の一節で有名な明治5年(1872)発布の学制の当時の栃木県日光市、藤原地域の様子を見てみよう。

 ちなみに藤原町の読み方は「ふじはらまち」である。でも、東武鉄道鬼怒川線の終着駅名は「新藤原(しんふじわら)」なのである。不思議だ。

幕末から藤原町の誕生まで

  藤原地域の記録の多くは享保年間の五十里洪水による一村全滅や戊辰戦争での焼き討ちなどで損失し、それ以前の記録は主に口伝によるものである。幕末頃の藤原地域は14の村々が存在した。

  • 日光神領       柄倉村、小佐越村、滝村、川治村 (鬼怒川の右岸)
  • 高徳藩領       大原村、高徳村、藤原村、高原村 (鬼怒川の左岸)
  • 会津藩領    横川村、上三依村、芹沢村、中三依村、独鈷沢村、五十里村 (男鹿川沿い)

 幕末から明治時代にかけて、目まぐるしく変化していく藤原地域の様子を辿ってみよう。

日光神領

 明治元年(1867)、柄倉、小佐越、滝、川治を含む日光神領(日光東照宮領)の64ヶ村は日光霊屋領(たまや、大猷院領のこと)8ヶ村とともに真岡県となり、知県事には佐賀藩士の鍋島道太郎が就任した。知県事務所ははじめ宇都宮城内に置かれたが、8月には石橋宿の開雲寺に移り、9月には旧日光奉行所を出張所とした。さらに明治2年(1869)には日光を本陣とし、石橋を出張所に変更し、名を「日光県」と改めた。

石橋駅前の日光街道沿いにある石橋山開雲寺。

高徳藩領

 高徳藩は慶応2年(1866)、戸田忠至(ただゆき)によって立藩された宇都宮藩の支藩である。高徳藩は江戸時代の最後に立藩された藩であり、大原村、高徳村、藤原村、高原村はいずれも領地となった。ただ、戸田忠至は立藩後もほとんど京都や東京に住んで朝廷の要職に就いていたため、高徳村には居住はおろか来た事実も無いという(藤原町史)。高徳藩は明治2年(1869)に版籍奉還し宇都宮県に属したが、明治3年(1870)に戸田氏の移封によって日光県に編入された。
 高徳にある戸田大和神社は高徳藩の陣屋が置かれた場所だと伝わる。

高徳藩の陣屋が置かれたと伝わる戸田大和神社。

会津藩領

 三依地域の6ヶ村(中三依村・芹沢村・五十里村・独鈷沢村・上三依村・横川村)を含む会津藩領は、明治元年(1867)9月22日、会津の若松城が開城になると分割され、三依地域は新政府の直轄となり、さらに明治2年(1867)5月、若松県が誕生すると三依地域もこれに属した。明治4年(1871)に山王峠を堺に三依郷は日光県に移管されることになった。


 このようにして、藤原地域の村々は明治4年(1871)にはすべて日光県の管轄となった。同年7月に廃藩置県が断行されると日光県は廃され、藤原地区の村々は宇都宮県に属することになったが、さらに明治6年(1873)には日光県と宇都宮県が合併して栃木県となった。

 明治5年(1872)には学制が発布された。

 明治11年(1878)にはイザベラ・バードが藤原地域を訪れ、後にその様子を「日本奥地紀行」に記した。そこでバードは会津西街道沿いの村々の自然の美しさと、極めて貧しい村人の生活の様子を精細に記している。これは戊辰戦争で家財一式を焼失した人々が、まだ十分に復興相成っていないことなのだと思う。

 明治22年(1889)4月には町村制による合併が行われ、藤原の8村と三依の6村が連合して「藤原村」が発足した。各村名はそのまま大字とされ、村役場は大字藤原の戸長役場であった星次郎輔宅に置かれた。

 しかし明治26年(1893)3月には三依の旧6村が分離して、「三依村」として独立する。三依は元々が会津藩領だったこともあり、藤原地区とは政治的、経済的、文化的に大きな違いがあり、また藤原村役場とは遠隔で非常に不便が生じたためとされている。なお当時の藤原村役場は、藤原村の名主であった星家の家から移動し、藤原村大字大原486番地、現在の藤原運動公園のそばに置かれていた。

 昭和10年(1935)5月5日、藤原村は町制施行により藤原町となり、昭和30(1955)年5月5日には三依村は財政難などの理由から再び藤原町に合併し、我々の知る旧「藤原町」の形となった。

 さて、こういった経緯から、古い学校のことを調べるには「藤原地区」と「三依地区」を分けたほうが整理しやすい。

 ますは藤原地区の小学校について調べてみよう。

藤原地区の小中学校

 藤原地区には現在、「鬼怒川小学校」と「下原小学校」、そして「藤原中学校」がある。藤原地域の各村に開校した学校は何度も統合や移動、校名の変更があり、本校と分校の関係も変わっていく。

 まず、明治初期の小学校の様子を極めて簡単に振り返る。例によってこれらの年表は参照する本によってかなり違いがあり、特に開校の年度が未だ不明である。これは資料の散逸や、「藤原尋常小学校」の沿革誌も開校からかなり後年の明治41年(1908)4月から記録されたものだからである。

 校名も何度か変更になっているが、ここでは流れが理解しやすいように校名をなるべく統一して振り返ってみる。よって、以下の年表では校名は正確ではない事を念頭に入れてほしい。

  • 明治7年(1874)        大原村に「大原小学校」が開校。
  • 同年              藤原村に「藤原小学校」が開校。(明治11年とも)
  • 同年              高原村に「高原小学校」が開校。(明治6年とも)
  • 明治19年(1886)        滝村に「滝小学校」が開校。
  • 大正10年(1921)        大原小学校に高等科を設置し、「藤原尋常高等小学校」と改称。滝、藤原、高原の各小学校を分校とする。
  • 大正11年(1922)        高原小学校に高等科を設置する。
  • 大正12年(1923)        藤原尋常高等小学校が現在の藤原中学校の場所に新築移転。旧校舎を「小佐越高徳分教場」とする。藤原、滝の小学校もそれぞれ分校とする。藤原尋常高等小学校には、小佐越高原、藤原、滝の尋常科5,6年と高等科生を収容する。
  • 昭和14年(1939)        藤原、滝の小学校を統合して、「鬼怒川分教場」とする。
  • 昭和22年(1947)        高原小学校を「川治小学校」とする。
  • 同年                            藤原尋常高等小学校を新制の「藤原中学校」とする。
  • 同年                            川治小学校に「藤原中学校川治分校(後の川治中学校)」を併置する。
  • 昭和23年(1948)        鬼怒川分教場が「鬼怒川小学校」として独立。
  • 同年                            小佐越高徳分教場が「下原小学校」として独立。
  • 昭和27年(1952)        「鬼怒川小学校瑞穂分校」が正式開校。
  • 昭和51年(1976)        瑞穂分校が廃校。
  • 平成22年(2010)        川治小学校が鬼怒川小学校に、川治中学校は藤原中学校にそれぞれ統合され廃校。

 年表には現在では聞き慣れない校名がならんでいる。次回からは一つ一つ、その校名を辿ってみよう。

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