今市の廃校9 長畑学舎

小代尋常小学校長畑分教室(長畑学舎)

小代尋常小学校長畑分教室は現在の日光市立落合西小学校のルーツとなる学校であり、厳密に言えば廃校になったわけではないが、明治期にその名を失った学校であり、同様の環境でありながら廃校記念碑まである「岩崎学舎」に比べると認知度が低いと思うので、ここで取り上げたいと思う。

同校は小代知新舎の長畑分教室として明治6年(1873)に開校し、長畑村中居の長野浦清吾氏の居宅を借用した。翌年、新校舎が長畑村宮ノ下に完成した。

長畑学舎

明治17年(1884)には生徒が増えたために増築を行い、「村落にてはチト出来すぎたる構造(当時の下野新聞)」と報じられた立派な学校であったが、明治22年(1889)9月23日夜12時ころに出火。長畑地区の住民が消火活動にあたったが甲斐なく焼失し、焼け跡からはなんと焼死体も見つかった。同校は人家から距離があり生活に不便なため、教員も他所に居住して無人であった。
また前日は日曜、出火当日は大祭日で両日ともに休校のため火の気はまったく無かった。原因について当時の下野新聞は、「同地山林の間に入り込む賭博連中が勝負のもつれから仲間を殴り殺し、発覚を恐れて死体もろとも放火して跡をくらませたのではないか」と伝えている。

またこの火事のため、明治22年以前の日誌や沿革等もすべて焼失してしまったため、それ以前の詳しいことは不明である。

教室と教育用具を一切焼失してしまった同校は、長畑の有力者の寄付を得て翌月、当時無住であった普門寺と古橋亀吉氏の住宅を借用し、明神の大通寺を借用していた明神分教室も統合して学校を再開した。

明治25年(1892)には小学校令が改正され、「落合尋常小学校西校」と改称した。ときに生徒数は111名を数えた。

その後、明治28年(1895)には現在の落合西小学校の校地に新築校舎が落成し、手狭になった普門寺から移転した。廃校になった小代尋常小学校の生徒23名を加え、生徒数は221名でのスタートとなった。落合西小学校はこの日の明治28年(1895)11月17日を開校記念日としている。

さて学校の場所は、最初に開校となった長野浦氏の居宅は今も場所を変えずに長畑地区にあるが、個人宅なので場所は割愛する。
さらに周囲で、新築された宮ノ下の長畑分教室の場所を尋ねると、長畑地区の住民はほとんどの人がその存在を認知し場所を教えてくれる。それは西澤神社の道を挟んで反対側だったということである。現在は道路の両側に植林が施され暗く、行き交う人も少ないため道は苔むしている箇所さえある。
しかし以前は植林されておらず、校地は日当たりのよい平坦な台地にあり、その斜面では昔、佐藤治由先生が子どもたちを連れて縄文時代の矢じりを探していたということだ。

西澤神社の向かい側に学校があったと言われる。
学校があったと思われる場所。西澤神社の向かい側。
普門寺
当時無住であった普門寺。ここに落合尋常小学校西校が開かれた。

今市の廃校 終

旧日光市の廃校に続く

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