今市地震の爪痕(1) 金澤山と室瀬行川

今市地震

 それは73年前。長く辛い第二次世界大戦が集結して4年後、日本の経済にようやく自立の目処が立ち始めたころである。
 今市町は多くの人で賑わう暮れの大売り出しの「商工祭」の最終日であり、学生たちは冬休みに入る前の終業式を迎える日。そんな慌ただしい年の瀬、大地震は起こった。

 今市地震は、昭和24年(1949)、極寒の12月26日に今市町の鶏鳴山付近を震源として発生した大地震である。8時17分(M6.2)と8時24分(M6.4)の強い地震が8分の間隔をおいて起こり、10名の尊い命を奪い、負傷者163名、1万2千余の家屋を倒・破壊した。

 当時はまだ限られた市町村にしか震度観測点が設置されておらず(周辺では日光町・宇都宮市のみ)、震度計で観測された最大震度は4だったが、震源に近い今市町付近では震度6程度の揺れであったと推定されている。

 震災が起こった朝は-8℃の凍てつく日であった。30分ごとに襲う余震に町民は家屋の倒壊を恐れ、戸外で不安な日々を過ごし、今よりも遥かに消防設備が未発達の時代であるため室内での火の気の使用は厳しく禁じられた。テレビやインターネットが無い時代で、「男体山が噴火して、中禅寺湖が決壊するらしい」「夕方にもう一度大きな地震が来る」等のいわゆるデマがあったことも記録されている(今市地震体験文 今市市著)。

 また、朝日町では八百屋の大量のりんごやみかんが路上に転がり、逃げ惑う人がそれを踏んで転倒するという、我々でも想像しやすい話も語られている。逆に想像できない話としては、揺れを感じたら当時の人は何にも優先して反射的に囲炉裏やかまどの火を消したということだ。現代においては、ストーブもファンヒーターも、ガスの供給装置も揺れを感知すると機械がオートマティックに火を消す仕組みになっている。「地震だ火を消せ」「火の用心」「地震雷火事親父」という言葉にあるように、当時の人にとっては火の始末は社会的責任の最たるものであったのだろう。そのためか、今市地震はこれほどの大きな被害があり、さらには朝の炊事の時間であり、寒い冬期であったにも関わらず、1件の火災も出していないのは特筆すべきことである。現代に生きる我々も、これらは改めて教訓にしなくてならないことである。

 お年寄りが地震の際に「マンジャラク、マンジャラク」と唱えていたそうだが、これは調べてみると、宮城県と福島県の国境にある萬歳楽山(まんざいらくさん)という標高約900mの山を中心とした信仰であった。萬歳楽山の名は地震や災害除けの山として東北全体はもちろん関東、北陸、信越地方まで「マンザイラク」「マンゼロク」「マンジャラク」の 呪文とともに広く信仰されてきた。「人の口伝え」でしか情報が広まらなかった時代に、多少の訛を伴いながら日本の半分程度まで広まったことは驚愕である。考えてみれば、「口伝え」であるからこそ訛で言葉が変化していくのだろう。現代ではこういった変化はありえないだろうから。

さて今回は、今も実際に見ることができる今市地震の爪痕を辿ってみる。

 我々の年代は、当時の今市町の様子がわからないため、まず当時の町の様子を見てみよう。
 明治41年(1908)、電話が開通した。当初の電話加入者は54軒だった。明治23年(1890)には宇都宮ー今市間に蒸気機関車が通り、昭和4年(1929)には東武鉄道が今市までの鉄道を通した。学校は尋常小学校から国民学校という名称に変わった。そして未だ上水道は敷設されておらず、井戸で生活の水を賄っている。
 日露戦争における今市町からの出征者の戦死者数は8名であったが、太平洋戦争での死者は400人を超え、そして昭和20年(1945)、連合国に敗北した。
 そんな時代の話である。

以下は現在の地図である。

1.金澤山と室瀬地区 2.今市地方震災横死者供養塔 3.地震坂 4.和泉沼

(1)金澤山と室瀬地区

 金澤山は、今市の室瀬と長畑の間にある標高528mの山である。この山は地震によって山崩れが発生し、その土砂は家屋を飲み込み一家4人の命を奪い、行川を堰き止めさらに対岸まで達して、その対岸の家屋までをも全壊させた。

 当時の新聞記事より、今市町室瀬行川の様子を抜粋してみる。

「行川に涙すの記」

(昭和24年12月26日)午前9時、強震に揺らぐ今市町に急行した記者は最も被害の大きかった同町室瀬行川に向かった。途中いたるところに10cmから30cmの大きな亀裂のため行川手前2kmで自動車を捨て、不気味な地底と山鳴りを耳にしながら目的地に強行、山林中には行川部落からの避難民が一団となって不安におののく中を行川の高台にたどり着けば、見渡す一面は金澤山の山崩れが行川を堰き止めて泥海と化し、泥海をさまようこと10分、膝まで没する難路をカメラマンと共に行川へ、行川へ。

 やっと一家4名生き埋めになった福田家へたどり着いた。直径1尺(筆者注:約30cm)余りの杉の木数十本が屋根を潰し、人家の面影は地上に無く、地元消防団が懸命にのこぎり、シャベルで掘り下げ救出作業を続行している。土砂の下からは「ウーウー」とうごめく悲惨な響きが聞こえてくる。

下野新聞 昭和24年12月27日記事より

「行川部落の惨状 山崩れで泥海と化す」

今市町室瀬行川一帯の被害は甚大で、川をさし挟んだ金澤山の山峡は土砂崩れで同川を堰き止め約2万坪に達する山間は泥海と化し、同所農業福田文三郎さん(47 筆者注:実際は45歳)一家は文三郎さんを始め幸一君(21)、源吉君(18)、母サクさん(71 筆者注:後日の記事では68と訂正)の4名と馬1頭が泥中に没した。

 午前9時、文三郎さんのうめき声に隣家の福田仲次郎さん(61)、長男治三君(28)が発見、近隣に急報、地元消防団、寺崎警察学校長の指揮の60名の救援隊が現地に急行、救出に努めた結果、文三郎さんだけは必死の掘り出し作業で救い出したが、他の3人と馬の安否は全然不明である。

 また二百m離れた大門豊作さん一家はわずかに屋根だけが地上に浮かび、人名には異常ないが馬一頭は下敷きとなり消防団、警察官の救援で救出作業を続けている。

下野新聞 昭和24年12月27日記事より

続く。

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