徳川家康の遺骸 01
徳川家康の遺骸 02
徳川家康の遺骸 03
徳川家康は「改葬」されたのか?
さて、前回まで「家康の一周忌」、天海が鋤鍬を手に改葬の下知を伝える様子までを調べてきた。
今回は、「一周忌の際、家康は久能山から日光山まで改葬されたのか」を調べてみる。
日光山への勧請
家康は死後すぐに久能山に土葬で埋葬されたことは説明済みである。当時、火葬は貴人に対する非礼と取られたり、また火葬によって生じる匂いや煙を「穢れ」と考え、「これから神と崇められる」人にとってふさわしくないと思われていたという。そのため徳川歴代将軍はすべて土葬で埋葬されている。
家康の遺体に特別な処理が施された記録はないので(硫化水銀で処理されたのではないかという説もある)、土葬後1年も経過した遺骸はかなり腐乱していたはずである。そのため、改葬を諦め、移動したのは御霊を移した鏡やあるいは遺髪、爪などだという考えも的外れではないだろう。
ともあれ、家康の遺骸もしくは何かしらを乗せた霊柩の行列は、元和3年(1617)3月15日、天海、本多(上野介)正純、土井(大炊頭)利勝、松平(右衛門)正綱、板倉(内膳正)重昌、秋元(但馬守)泰朝ら1,300人の大人数によって久能山から日光山に向けて出発した。
以下はそのルートである。
家康の遺骸(もしくは何かしら)は「御尊櫃御成道」と呼ばれるそのルートを3月15日から4月4日までの21日をかけて日光山まで運ばれた。
途中江戸城には寄らず、しかし天海は自身が僧正を務めた川越の「喜多院」に立ち寄り、そこで4泊もしていることが記録に残っている。
喜多院には仙波東照宮が残っている。
「家康の墓」論争
さて、ここまで家康の改葬までの流れを辿ってみた。
ここからは日光山、久能山、どちらに家康が眠るのかの互いの論拠を箇条書きにしてみよう。
日光山に眠っている派
- 日光への改葬は、藤原鎌足が死後1年後、摂津から大和に遺体を移した故事にならったもの(天海編集の東照社縁起)である。当時の宗教家の感覚から言って、象徴的に「鏡」等を移しだだけと考えるのは不自然である。
- 徳川将軍の日光社参には莫大な費用がかかり、歴代将軍のなかでも計画はあがれど、財政上の理由で頓挫するほどの大掛かりなものである。それにもかかわらず、歴代6名の将軍が、都合18回も日光を訪れている。しかし久能山へは遷座式のときの秀忠の1回と、その他は家光の3回と14代将軍家茂1回だけ、しかも上洛の途中に立ち寄っただけである。
- 家康を敬愛してやまなかった3代将軍家光は、都合10回も日光東照宮を参拝している。ちなみに家光は、父秀忠の廟がある増上寺には2回、母の崇源院廟には1度しか訪れていない。
- その家光が、日光に眠っている。「私が死んだ後も魂は徳川家康の祭られている日光山にまいりて、仕えまつらんと願うゆえに、遺骸を慈眼堂のかたわらに葬る」ように遺言している。
- 改葬に帯同した公卿烏丸光広は、日光山紀行に「尊骸を日光へ移し奉らる」と記している。
久能山に眠っている派
- 家康は生前、一度も日光に行っていない。
- 遺言は「日光への勧請」であり改葬ではない。秀忠も本多正純もそんな無茶を許すはずがない。
- 久能山東照宮の神廟は、当初は小さな社であった。
これを、寛永17年(1640)、家康が亡くなって24年も経ってから、家光が石造りに改装し、立派なものに作り変えている。日光へ改葬が済んでいるなら、後年になって家光が久能山に大きな神廟を作る必要はなかったのではないか。 - 改葬の際に天海が詠んだ句、「あれはある奈け連は奈ひ尓駿河なるく能奈き神の宮遷し哉」は、「有れば有る 無ければ無きとするがなる 躯の無き神の宮遷しかな」というように読み解くことができる。
「有ると思えば有るし、無いと思えば無いとすればよい。 躯体のない神の遷宮」という意味ではないか。 - 徳川宗家が、墓は久能山にあると認めている。
結局は?
結局のところ、この論争は未だに決着がついていない。現在まで、日光も久能山も、その墓と言われる場所が調査されたことはない。
ただ。10年前から比べると、「久能山派」がインターネット等を通じて発信力を増しているのは否めない。それはそうだ、新説だから。
「日光山派」は、反論が難しいのか、そもそもそんなトンデモ説を相手にしていないのか、久能山派ほどの勢いを感じない。
大抵の本やサイトを見ても、普通は「どちらが墓であろうとどちらもその価値は揺るぎない」的な腑抜けた玉虫色の終わり方で締めているものが多い。
だが、ここまで調べてきた先人たちが、その結末を玉虫色で満足しているはずがないだろう、もちろん。
私も知りたい。本当はどっちなのだろう。どちらが墓であろうとどちらもその価値は揺るぎないのだが。
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