今回は、栃木県日光市(旧今市市)の倉ケ崎ー大桑周辺の「会津西街道」の古道について調べた記事である。我ながらかなりマイナーな記事だなとは思うのだが、考えてみれば今まで一度もメジャーでワールドワイドな記事なんて書いたことがなかったことに気づいて愕然としている。
皆さんは、今市の「会津西街道」の古道と聞いてどこが頭に浮かぶだろうか。旧道ではなくて、古道である。
恐らく普通に思い浮かぶのは、「今市から大谷橋を渡って大谷向駅の方面から大桑に向かう杉並木」なのではないだろうか。
実はそれだけではオマケしても70点しか差し上げることはできない。今回は明治の中頃まで通っていた「会津西街道の旧道」の「古道」をご紹介しよう。
日光杉並木街道
まず、簡単に日光杉並木の歴史を辿ってみよう。
時は江戸時代。松平正綱は主君・徳川家康の没後、日光東照宮の参道にあたる日光街道、日光例幣使街道、会津西街道の3街道に紀州から取り寄せた15,000本程の杉の苗木を植樹した。
この事業は寛永2年(1625)から20年以上の歳月をかけて行われ、慶安元年(1648)、家康の33回忌に参道並木として日光東照宮に寄進された。
総延長は35km超で、「世界最長の並木道」としてギネスブックにも登録されている。
日光杉並木街道は江戸時代には日光奉行による手厚い保護がなされ、枯れたり倒木したりした場合には新しい樹木が植えられた。
しかし江戸幕府が倒れ、明治新政府下になると状況は一転、日光杉並木の保全予算は極めて限られたものになり、その中でもとりわけ明治3年(1870)、大蔵大丞の地位にあった井上馨(長州藩出身)は、明治政府の財政の立て直しのために当時樹齢200年を超える日光杉並木街道の杉のすべてを伐採することを閣議にかけ、了承されている。
この「関係人物全て間抜け」という極めて愚かな決定は、駐日イギリス公使であったサー・ハリー・スミス・パークスによる「日光杉並木は世界的に見ても非常に高い文化価値を持つものである」という進言を受けて「あ、そうなの?」と間一髪、中止となった。
当時の日本の文明文化は「金が無いから古樹を切ってしまおう」という程度のものだったのかと僕は悲しく思う。
この当時、新しい日本を率いる我が国の上層部たち(新政府軍の人たちですね)は、重要な文化財の価値を理解していなかったのだろうか。
日光杉並木街道の素晴らしさは、(一部の人を除いた)日本人は言うに及ばず、明治前半期から以後、当時の日光を訪れた多くの外国人がその美しさに驚嘆し、今でも絵画や旅行記と言った形で当時の日光杉並木の様子を見ることができる。
会津西街道
日光市の今市から福島県会津若松市までをつなぐ全長約130kmの「会津西街道」は、江戸時代に会津藩主の保科正之によって整備された道である。
遺跡の分布から考えると縄文時代中期にはすでに道の原型は出来ていたとされ、江戸時代には会津藩・新発田藩・村上藩・庄内藩・米沢藩などの参勤交代や、江戸と会津を結ぶ物流の道として重要な街道であった。
会津西街道は多くの呼称を持っており、今市宿側に住む人々は「会津道」、会津藩の公式記録である「家世実紀(寛永8年(1631)~文化3年(1806))」では主に「南山通り」「南通り」を用い、希に「川治通り」も使われている。
「会津風土記(寛文6年(1666年))」では「下野路」と呼び、1800年初頭に編纂された「新編会津風土紀」では、これを「下野街道」に統一するとしている。
今市宿の住民から見れば会津に向かう「会津西街道」、会津の住民から見れば南山御蔵入領(現・福島県南会津郡など)や下野に向かう「南山通り」「下野街道」と呼称したということになる。
このように、昔は住む地域、人々によって道路の名称は幾つかの種類があったのだろう。
ただし、「藤原町郷土誌 歴史編(藤原町教育研修会 昭和38年)」によると、藤原村の星家蔵文書や古文書、百篇に近い文書を当たっても「会津西街道」の名はついに発見できなかったという。よって、この街道の正式名称は「南山通り」であり、「会津西街道」の名は明治以降に使われるようになったか、あるいは俗称だったのではないかと推察されている。
下図を見てみよう。今市から国道121号線を鬼怒川温泉方面に向かい、大谷川を渡ると道は3つに分かれる。
左折する道は「栗山街道」と呼ばれ、日光市小百を経由して大笹峠から旧・栗山村に向かう。真っ直ぐの道は昭和46年(1971)に開通した「国道121号線バイパス」である。
今回の主役は、右折する旧街道「会津西街道」である。これは東武鉄道鬼怒川線の大谷向駅の前を通って杉並木に入る古い道である。
さて、日光市に住んでいる方なら、この道が大谷向駅の前を通って大桑方面に向かう「会津西街道の昔の道である」ことはもちろんご存知であろう。この道は大谷向駅の先から杉並木に入り、日光自動車教習所の前を通り、121号バイパスと倉ケ崎新田交差点で交差し、菊屋ホールの前を通り、大桑方面に続いていく道である。
現在の道を見てみると、杉の並木道は下図のように日光自動車教習所の先で一旦途絶える。そして次にまた杉並木が始まるのは1kmほど先、菊屋ホールの先の十文字食堂あたりからである。
この約1kmの区間だけ綺麗さっぱり杉並木が無いのには理由がある。
それは明治時代、この区間は道が付け替えられたからである。
明治17年(1884)、栃木県令の三島通庸は周囲の反対を押し切って県庁を栃木市から宇都宮市に移転し、県内を縦に貫く奥州街道の拡幅を命じた。
同年、三島は会津西街道の改修計画を立て、倉ケ崎から大桑までの屈曲した道路を真っ直ぐにする命令を出した。それに伴い杉は1千本ほどが伐採され、道はほぼ直線になった。
会津西街道の古道の跡を辿る
いよいよここからが本題に入るが、今回は道が付け替えられる前、いうなれば「旧道の古道」を歩いてみよう。下図の緑色の線が改修前の古道と言われているルートである。
(A) 日光自動車教習所のあたりから杉の並木が途絶える。右手の現在無住の家は元豆腐屋の小出家である。古道はここからはじまるが、とうの昔に田んぼになってしまっているので道は名残も見つけられない。ここよりバイパスのスバル自動車販売日光店に向かって田んぼを突っ切る。
(B) 古大谷川に行く手を阻まれるが、川の向こうに石塔が見える。飛び越えるのは難しい川幅なので、すこし上流川にある小さな石橋を渡ろう。
石塔の表面はかなり摩滅しているが、下部に向かい合った猿の陽刻が確認できるため、この石塔が「庚申塔」であることがわかる。享保13年(1728)に建立された柱型である。
ここには古くは権現塚と呼ばれる塚があり、近所の方に話を伺った所、「確かに60年くらい前まで、ここに大きな塚があったことは記憶している。戊辰戦争での亡骸を埋めた塚だと聞いていたが、しばらく前に重機で平らに慣らされてしまった。その時は何が出てくるのかとビクビクしていたことを覚えている」とのことだった。この塚が何だったのかは要研究であるが、確かに戊辰戦争の時はこの道を沢山の兵が歩いて行ったのは間違いない。こういった「言い伝え」を伺うのは真偽はともかくとしても楽しいものだ。
(C)スバルの前のバイパスを渡り、旧・日産自動車販売の裏から細い道に入る。この道が古道である。
(D)地蔵堂の前に至る。今はほとんど人が訪れない地蔵堂であるが、ここの百日紅の木と地蔵堂はそれぞれ500年以上前のものであり、「倉ケ崎のサルスベリ」「石造 地蔵菩薩坐像」として日光市の指定文化財となっている。たくさんの人が通ったであろう往古とは違い、今はあまり手入れもされていないように見受けられる。以下に日光市指定文化財の説明板からの引用を掲載する。
・倉ケ崎のサルスベリ この場所は、かつて倉ケ崎城があったとされる毘沙門山麓に位置し、雷電神社など数社の小祠の建つ聖地となっている。地蔵堂の小石仏には大永2(1522)年(筆者注:大永3年とも)の銘があり、この小石仏が安置されたときに植栽されたものと考えられる。1幹に7本の大枝を分かつ老樹であったが、一部が枯れて現在の姿となっている。 ・石造 地蔵菩薩坐像 安山岩に素朴な技法で彫られ、像高48cm、坐幅35cmの小石仏である。背面に大永2(1522)年の銘がある。同2年3月上旬、四郎二郎(筆者注:四郎三郎とも)なる者が旦那・法泉坊四郎右衛門のために、菩提をとむらい建立したものである。戦国騒乱の最中、日光山勢力と宇都宮氏の争いが絶えなかった時期である。宇都宮氏勢力の拠点であった倉ケ崎城が落城したのは天正15(1587)年である。中世銘のある希少な石造地蔵であり、倉ケ崎城との関連も示唆している。
(E)田んぼを突っ切って小川を飛び越え、さらに道を渡り菊屋ホールに向かう。ここの庚申塔が目印となる。道は庚申塔の裏側をぐるりと回っていたらしい。
元文5年(1740)の庚申塔には、「右しらかわ 左あいつ」と記されている。この周辺から福島県白河市に通じる道と言われてもピンと来ないが、おそらく芹沼から大渡、大田原市方面に抜ける日光北街道を指しているのかもしれない。
(F)もう一度道を渡り共同墓地に向かう。すでに民家が建っているので迂回しなくてはならない。墓地内にはいくつかの杉の伐採痕が見られる。
(E)古道は民家の後ろに続いているが、すでに家が立っているので迂回する。道は十文字食堂のあたりで現在の会津西街道とるながる。
以下はGPSである。既に道が残っていないところが多いので、かなり回り道していることがわかる。
会津若松からのお殿様が、沢山の旅人や外国人がこの道を通ったのかと、昔も今も変わらない周囲の山々を眺めながら、たまには車ではなく歩いて辿ってみてはいかがでしょうか。
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