鬼怒川水力電気 01 (鬼怒川水力電気の設立)

東洋一の水力発電所

鬼怒川発電所

 今市から国道121号線を鬼怒川温泉方面に向かい、日光市立藤原中学校の先の跨線橋を通ると、ちょうど正面右手の山に見えるのが「東京電力リニューアブルパワー㈱ 鬼怒川発電所」である。
 これは栗山村(現・日光市)の黒部ダムを水源とした水力発電所で、最大出力12万7,000kw、常時出力1万1,200kwを誇る大規模な発電所である(ところで皆様の中には「黒部ダム」ってどこだ、という方もおられることでしょう。これは富山県の観光名所でもある日本で最も堤高の高い黒部ダムではありません。このことは後ほど)。
 この発電所の竣工は大正時代に遡る。当時は「鬼怒川水力電気株式会社 下滝発電所」と呼ばれ、その規模は東洋一を誇り、日本全国の発電量の13%もの電力を担った。

 今回は明治44年(1911)に起工され、大正2年(1913)に竣工したダムと発電所、付随する施設について調べた。

鬼怒川水力電気㈱の設立まで

 日本は日清戦争(明治27年(1894)~明治28年(1895))の勝利によって国際的な地位が向上し、世界の強国に列せられた。欧米先進国の文明を吸収し近代産業の振興を進めた日本の文化水準は飛躍的に向上し、その中でも重工業や交通運輸の発達の勢いは目覚ましく、人々の電力への関心と需要は大いに高まった。

 当時、電力を得るには火力か水力に頼る以外の方法は無かった。火力発電が燃料を燃やした熱で水から蒸気をつくり、その蒸気を発電機につながった巨大なタービンに勢いよくぶつけて回すことで電気を起こすことに対し、この頃の日本の水力発電は流れ落ちる滝や河川などの自然の力を利用してタービンを回すものであり、絶対的な発電量や安定性に於いて不十分なものであった。日本の水力発電事業は明治21年(1888)宮城県の紡績工場に電力を供給するための三居沢発電所運転開始が日本初であり、次いで明治23年(1890)には足尾銅山の精錬事業に電力を供給する間藤原動所が運転を開始する。ただしこれらの発電所は用途が事業所用の規模が小さなものであった。

 1880年代後半には欧米で変圧器が発明され、それまで動力源に乏しかった地域にも高圧送電線を使った送電が可能になった。そして自然のままの水の流れを利用するのではなく、貯水池やダムのような土木工事によって人為的に手を加え、冬期の渇水期に備えて雨期に水を貯め、流れる水の量をコントロールし、高所に作られた水槽から一気に水を流すことにより発電の量と安定性を高めることに成功していた。 

 そんな中、明治40年(1907)12月、甲府桂川を利用した水力発電所である東京電灯駒橋発電所が竣工し、山梨県から東京府まで55,000ボルトの高電圧で送電がなされた。これが日本で初めての高圧送電線を利用した長距離電力輸送であり、これにより日本国内において長距離送電時代の幕が切って落とされ、多くの電力会社が設立された。

 水量豊富な河川の上流に水力発電所を設けその電力を東京に供給する案は明治時代の中頃には検討されていた。鬼怒川水力電気株式会社の母胎となる「東京水力電気株式会社」(以下、東京水電)もその計画の一つで、発起人は華族であり貴族院議員でもあった「田健治郎」と他17名であった。東京水電は東京近県で水力発電所建設に適した河川を検討した結果、栃木県の鬼怒川流域に注目し、明治39年(1906)6月に栃木県知事に河水引用許可願を提出、同年認可された。鬼怒川の流れは日光山系の海抜2,000m超にある鬼怒沼から発する。鬼怒沼は日本一高いところに存在する高層湿原で、そのため昔から多くの伝説を生んだ場所である。

 その後明治43年(1910)5月までに5回に及ぶ現地調査を行った結果、最も減水期に当たる冬期でも鬼怒川は当初の推定を大きく上回る水量を確保できることが明らかとなった。
 水力発電事業に於いて大切なことは電力需要の状態をしっかりと精査することである。膨張発達する都市の電力需要を見極め、最後の5回目の現地調査では事業地の全般を詳しく調査し、中心部となる栗山村黒部の堰堤の位置、発電所の設置場所などを精査した結果これも全く問題がなく、こうして技術上、立地上の問題は次々と解決していった。

高い電圧にして送るわけ

電力(W ワット)を送るときは送電中のロスを少なくするために電圧(V ボルト)を高くする。
電流(A アンペア)が送電線を流れると電気抵抗のため熱(ジュール熱)が出て、そのぶんだけ電気をロスすることになる。この熱は電流(A)が多いほど多くなる(ジュールの法則)ため、電流を少なくすればロスが少なくなるわけである。
電力(W)を送るならば、電圧(V)を上げ、電流(A)を下げれば(W=VxA)、送電中のロスを減らすことができる。

1000Wを送るなら
・1000A x 1V →ジュール熱でロスが大きい
・1A x 1000V →ロスが少ない

ただし、発電所で作られる「高電圧」とは数万~数十万ボルトとピカチュウもびっくりの高電圧である。このままでは使用することができないため、各地に届いた電力は変電所で100Vや200Vなどに電圧が下げられ、家庭や工場で使用できるようにしている。

また、交流、直流等の考え方の違いもあるらしいが、今回の趣旨と異なりよくわからないので割愛する。

 だが日本経済は明治37年‐明治38年(1904-1905)の日露戦争後の戦勝景気から一転、明治40年(1907)を境に深刻な恐慌に襲われた。戦費調達のための巨額な外債と、戦勝したにも関わらず賠償金が得られなかった無賠償講和によって戦後経済はしばらく低迷した。そのため巨額な費用がかかるこの水力発電所事業は何度も資金調達に失敗し、発起人たちの中でも事業を継続するか否かで衝突があった。
 議論の結果、東京水電は一旦解散する事となり、国家のためにもこの事業を貫徹しようとする者たちが再度集まり田健治郎を中心として新たに「鬼怒川動力会社創立準備組合」が結成され、東京水電の事業を継続することになった。

 準備組合はどうしても集まらない資金を外資に頼る方法を考え、明治42年(1909)、イギリス人の資産家エー・ウェンデル・ジャクソンとの協定を図った。しかし国情の相違による法制上の条件に互いに合意できない点があり、数回の交渉を重ねたが妥協の余地は見つけられず、翌年の明治43年(1910)5月、交渉は打ち切られた。
 この外資導入計画が失敗に終わったことから、田健治郎ら複数の発起人たちは「設立の見込み立たず」と判断し手を引いたため、準備組合は解散となった。

 一方その頃、すでに別に動いていた準備組合の発起人の一人「利光鶴松」は、会社が設立された際の経営の安定を図り、大口の電力供給先の確保に注力していた。そして熾烈な競争を勝ち抜き、明治42年10月、東京鉄道(後に明治44年(1911)東京市電気局)との契約に成功していた。東京鉄道は東京市内をほぼ独占する交通機関で、これと契約を交わすことは即ち電力事業経営の安定を意味するものであった。

 利光の競争相手は桂川電力、吾妻川水力電気、大利根水力電気、日英水力電気、東京電燈の各社であった。中でも「日英水力電気」は三井財閥、住友財閥の後押しを得て、井上馨や松方正義の元老や、桂太郎首相、小村寿太郎外相らの政府高官が関係している有力企業であり、既に東京鉄道との需給契約を結んでいた。これは明治41年(1908)7月までに会社を成立させ、大井川の上流に水力発電所を設け、明治43年(1910)7月に東京市に電力を供給する契約であった。
 しかし日英水力電気は当時の不況下で明治41年の期日までに会社を設立することができなかった。このため東京鉄道は日英水力電気との契約を解除し、直後に改めて別の電力会社との契約を望んだことからこれら複数の電力会社の受注競争となった訳である。
 東京鉄道はこれらの電力会社の中から工費の低廉さと早期完成の見込みが十分なものを選び、明治42年(1909)10月に鬼怒川動力会社創立準備組合との契約を締結した。
 こうして優良顧客との契約が済み前途に光が見えた時であるにも関わらず準備組合は解散、利光ははしごを外されてしまうという結果になった。

鬼怒川水力電気株式会社の設立

 ここに至って準備組合の幾人かは外資導入に依存するばかりでせっかくの計画を台無しにしてしまった結果に非常に憤怒し、徐々に好転の兆しを見せてきた国内の経済情勢も味方にして国内資本によって志を貫徹しようと決起した。その中心人物が「利光鶴松」、当時46歳である。
 利光は改めて別の会社を作ろうと東西奔走し、大阪方面の財界の協力を得ることに成功した。そして遂に明治43年(1910)10月1日、利光らは東京商工会議所で設立総会を開き資本金1,350万で「鬼怒川水力電気株式会社」(以後「鬼怒川水電」)を設立し、準備組合が所有していた権利、契約、責任の一切を継承した。鬼怒川水電が発電する電力は東京市電気局に送電され、東京市の路面電車や送電事業の電力を賄うこととなった。
 なお前述の鬼怒川周辺の「5回に渡る現地調査」のうち、4,5回目は鬼怒川水電によるものである。


 以下は明治43年(1910)7月27日付けで東京朝日新聞に掲載された「鬼怒川水力電気株式会社証拠金払込広告」である。鬼怒川水電は9月15日に第一回の株式払込(1株に付き申込証拠金2円50銭を含み12円50銭)を完了した。

鬼怒川水力電気広告
鬼怒川水力電気株式会社 証拠金払込広告(東京朝日新聞 創立委員と発起人の一覧 明治43年7月27日)

実業家、利光鶴松

 実業家で衆議院議員でもあった「利光鶴松としみつつるまつ」(文久3年(1864) – 昭和20年(1945))は以前に日光周辺で鉱山開発を計画したことを機として、豊富な水量を誇る鬼怒川流域の水力電気事業に興味を持っていた。
 利光は豊後国大分郡稙田わさだ村字粟野(現大分県大分市稙田)に農家の長男として生まれた。明治8年(1875)から11歳の遅きにして初等教育を受け始め、明治11年(1878)に卒業。13歳の時に父が亡くなると農家の家督を継ぎ、独学で漢学などを学んだが学業の道を諦めきれずに実家から出奔し、叔父の学資援助を得ながら歩いて上京した。
 代言人(弁護士の旧称)を志し、明治19年(1886)、明治法律学校(現・明治大学)に進学。翌明治20年(1887)4月に代言人試験を受け合格する。学生時代は叔父の援助に頼っていたため生活に全く余裕はなく、参考書類は一冊も購入できずに友人からすべて貸してもらい、講義の筆記は藁紙を使用して余白にも余すことなく書き込んですべて暗記したと自伝は記している。
 利光は神田猿楽町かんださるがくちょうで代言人事務所を開業し、木場・神奈川・信州の顧客を得て繁盛した。その後は代言人業の傍ら立憲自由党員として政治活動も行い、明治31年(1898)に衆議院議員に当選。同時に実業家としても活動を始めたが、明治33年(1900)には東京市参事会収賄事件により収賄幇助罪に問われ判決確定後に議員資格は消滅した。これは利光35歳のときである。

 余談ではあるが、現代に生きる我々にとって電気は必需品である。電気事業連合会調べのデータ「a-3 最大電力発生日の時間別電力需要の推移」によると、我々の電力使用量は「9時から19時まで」がおおよそのピークとなっている。我々の生活基盤を支えるために、たくさんの大規模工場が極めて大きな電力を使用しているからである。しかしこの発電所ができた大正時代は電力とはほとんどが夜に、すなわち「照明」として使われるものだった。
 水力発電は24時間365日、流れる水を利用して発電を続けるが、当時の技術では得た電力を蓄えることができなかったため、日中に発電された電力は無駄になってしまう。そこで電力会社は余剰電力の供給先として、鉄道会社に販路を求めたり、自ら電気鉄道会社を興すことを計画した
 利光鶴松は後に小田原急行鉄道(現・小田急電鉄株式会社)を創立して社長に就任するが、これは理に適ったことであり、当初、小田原急行鉄道は鬼怒川水力電気の子会社だったのだ。

 つづく。

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